繋がる星と願いと
OPP2 自身のプロットから作成しています。
アザーズプロット企画2 (Ather's Plot Plan 2) に参加しています。 「繋がる星と願いと」は 自プロットから作成しています。 



♯2030年3月20日 午後11時

 ――地球が廻る音が聞こえる。

 シリウスの名前の由来は、「焼き焦がすもの」というものらしい。詳しくは知らない。でも、私の瞳に映るシリウスの青い炎は、本当に私の心を焼き焦がしてしまいそうだった。
 中天に昇った満月の輝きにも負けず、光の洪水のような街の灯にも負けず、たったひとつだけ、真っ暗な南天の真ん中で青い炎を揺らしていた。

 ――僕は、ここにいるよ。

 くすりと、自然と笑みが漏れた。
「本当にあの人らしい星です」
 そう、寂しがり屋で意地っ張りで、いつも僕はここにいるって言い続けていた。シリウス眩しさはそんな彼の有り様に重なる。
 だから、私たちは彼に導かれた。
 いつでも、どんなに苦しいときでも、ここにいるって言い続けることの大切さを学んだの。
 私たちは、ひとりではいられない。
 みんなが誰かを必要としていて、誰もがみんなにとって大切な人のはず。
 だから、ひとりで泣いている子がいたら、手を伸ばしてあげなきゃいけない。
 ちょうど、シリウスが私にしてくれたように。いまも、街の灯をシリウスの蒼い輝きが見守っているみたいに見えた。

 だから、私は素直に泣くことができたんだと感謝した。

◇  ◇


2030年3月18日 月曜日 午前8時20分

 今日の朝ご飯は、クロワッサン、うずらの卵、ほうれん草、ソーセージ、バナナ半分、ヨーグルト、牛乳。微妙に全部、なんか薄味。病院給食だから仕方ないけど。

 朝の回診の途中で、枕元に置きっぱなしだったPHSが鳴った。私、入院期間が長めだから、「お仕事用」に院内使用認証を取ったPHSを持ち歩いていた。
「あら、今日はお仕事の打ち合わせもあるのね」
 それを見遣った看護婦さんがふんわり笑顔になった。この「お仕事」に就くきっかけは、病院側が作ってくれた。私が思いの外、熱心に「お仕事」に取り組んでいることが、微笑ましく見えるらしい。
 リハビリ効果も期待できるし、何よりも患者さんの生活の質的向上に繋がるからと、歓迎しているのだとか……

 二年前、私は交通事故に巻き込まれて、瀕死の大怪我を負った。頭を強く打って二ヶ月以上も意識不明のまま生死を彷徨っていたらしい。
 そして、目が覚めたとき、私の身体は左腕が義手で、左眼が義眼で、左足が麻痺して歩くこともできない……そんな有様だった。
 そして、たくさん泣いた。

 でも、大丈夫っ!
 私、今は、すっかり元気になったから。
 二年遅れだけど、学校にも通えるようになったし、ボランティア活動の「お仕事」も充実していて、ちょっと忙しいけど、毎日、すごく楽しいもの。


♯午前10時45分

 メモ帳、三色ボールペン、蛍光マーカー、PHS、お財布、病室のカード・キー、ハンカチ……
 忘れ物がないか、良く確認して病室を出た。
 受付カウンターの端末機にカード・キーをかざした。私専用画面を呼び出して、お出かけ先と戻る時間を入力した。入院生活が長かったせいか、すっかり、この辺りの手順は慣れっこになっていた。
 ま、私の場合、病院地下のサーバーと常に量子化された専用回線で繋がっているから、いちいちこんな手続き通さなくっても、居場所はもちろん、今、何を見ているのかも解るんだけど……お約束だからね。

 もう、桜の季節。
 だけど、まだ、寒いからストールを羽織って、膝掛けを乗せて、充電式懐炉もポケットに忍ばせた。
 電動車椅子のバッテリーパックもフル充電になっているのを確認した。詳しくは追々話すけど、私は頭の中、五次視覚野まで演算処理のバイパス支援を受けているの。病院のサーバーかと繋がる量子化通信回線と、何よりも電源がないと、見ることすら十分にはできなかった。


♯午前11時00分

 インターロッキングブロックの歩道をカタコト、カタコトと電動車椅子を走らせること、十分少々。待ち合わせ場所のお店に着いた。すぐ近くにあるから、病院関係者もお昼ご飯に使っているらしい。

 ギャルソン風エプロン姿の店員さんに待ち合わせの相手の名前を告げた。ベランダ席に案内されると、長身の外国人男性が私を待っていた。
 大きく深呼吸。
 見遣ると、とっても優しそうな青い目が微笑している。私、視力が落ちちゃっているけど、お友達を見付ける眼力だけはあるつもり。
 この人は、私の中で花丸判定になりそうな気がした。
睦月輪華むつきりんかです。一応、高校一年生で……十七歳です」
 自己紹介は苦手。私は、最低限の内容だけ話して、後は相手が察してくれるか、上手く話を合わせてくれるのを期待するタイプだった。年齢と学年が合わないのは、事故で治療中の期間を休学しているから。
「貴女が、五匹遣い輪華サンですか。こんな可愛い女の子だったなんて――お会いできてコウエイです……」
 微妙に変な日本語が機関銃みたいに捲し立てる。悪い感じはしないけど、テンションが高すぎる。失礼ながら長すぎる台詞は割愛。要約すると、この方はリンカー協会から、私のサポート役として派遣されたボランティアさんです。
 ただし、私の身体は治験中の先進医療と量子化通信技術の塊だから、サポート役を買って出てくれたブラウニーさんは専門知識もあるし研修も受けている専門家なの。工科大学に在籍するサイバネティックス技術の研究者でもあるらしい。
 技術屋さんらしく私への興味は、「五匹遣い」の部分に集中していた。学年と年齢に食い違いがあることなんて、軽く笑い飛ばしてくれた。
 お仕事はと言うと……驚くほどに手が早い。今週の予定をメールで予め伝えておいたら、途中経路の段差や通信インフラの状態、お天気や、おトイレなどの休憩場所……私が心配しそうなこと全部を、完璧にリストアップしたデータを持参していた。
 それに、私が紅茶セットに付けるケーキの好みまでチェック済みだったの。
 だけど、嫌な感じはしない。超音速戦闘機でも打ち落としそうな勢いでしゃべるけど、私の表情をちゃんと見ているの。私が触れられたくない話題は、絶妙に避けているし。
 三十分ほど話して、優しい人だって良く解ったから、頑張って柔らかく微笑を揺らして見せた。
「あの、お気遣いありがとうございます。でも、ゆっくりお話ししましょ」
 すると、ブラウニーさんは恐縮して「ソーリー」と日本語と英語の混じった発音で笑ってくれた。
 それから、きっと、タイミングを計っていたに違いない――水色の封筒に青い星印が印刷された封筒が、にっこり笑顔と一緒に差し出された。
「☆ 星見会のお知らせ」
 一瞬、開いた笑顔がすぐにしぼんだ。
「……私、星はさすがにまだ……見えません」
 左眼が義眼だし、頭の中で「見る」を担当している一次視覚野は穴だらけ。再生治療を受けてリハビリに励んでいるけど、正直に言って、私の視力はアナログ時代のテレビ並みだった。
「そうでしたか……これは済みませんでした」
 ブラウンさんの微妙な訛りのある声が今度は日本語で詫びた。
「あっ、でも、でも……再来月予定の義眼のバージョンアップを繰り上げたら、シリウスだけなら見えるかも知れません」
 シュンとなったブラウンさんをフォローするつもりが半分、星が見たいのも半分……それに、見えなくってもリンカーの皆さんが集まる場所には行きたい。だって、おしゃべりしたいもの。
 もちろん星をみたい気持ちは本物。他は無理でも、シリウスは約マイナス1.5等級。恒星では一番明るい。コイツだけは見えるかも知れないと思った。
 PHSを引っ張り出して、画面に解除パターンを描く。病院に電話したらちょうど主治医の兎月とつき先生が捕まった。ダメ元で事情を話したら、あっけないほど簡単にOKが出た。兎月先生曰く、私の一次視覚野に植えた補充用の再生細胞の組織化が予想よりも速く進んでいるから、義眼のバージョン上げを病院側でも検討していたらしいの。
「ちょうど良かったですよ。視覚野マッピングプログラムの最新版もデータセンターから上がってきたところです」
 は? ……速い。みんな、お仕事、速すぎだよ。データセンターは病院の管理棟地階にある「何か、すごい所」だよ。私がこうしてみている映像は、一次視覚野から五次視覚野まで全部、量子暗号化されて病院のデータセンターに送られているの。そこのサーバーでは、ヒトの大脳新皮質が行う画像処理を真似したプログラムが走っていて、私の場合、怪我で損傷した視覚野の脳細胞の肩代わりをしてくれていた。
 私がこうして、ちゃんと、シフォンケーキを食べられてるのも、このサーバーによる支援のお陰。もちろん、完全な物じゃないから、制約もある。
 例えば、アップルティーが飲みたいと思ったら、両目で良くグラスを見てから、手を伸ばさないと大変なことになる。私が手を伸ばした先に何があるのか? これをサーバーが画像データから識別して、ガラスのコップだって認識することが大切。ガラスだって解っていれば、義手の左手で持っても割らずに済む。サーバーから義手に「ガラスを持っている」とデータが送られるから、ステッピングモーターが作る握力を上手く調節してくれるの。他にも画像からお茶の量を推量して、持つときの重心や重量も計算してくれる。
 だけど、空の星のような微かな光や小さい物は見えない。私の一次視覚野の分解能は昔のカラーテレビ並みだから。
 でもね、義眼を新調すれば、もしかしたら……?
「上手くいけばシリウス、見えるかも知れません。他の皆さんにも会ってみたいし……参加希望でお願いします」
 主治医の先生との電話を終えると、私は悪戯っぽくブラウニーさんに微笑みかけて、スカートのポケットからカードを取り出した。
「Oh! 輪華サン、それは――!」
 はい。ブラウニーさんがお待ちかね。私のぬいぐるみリンクの管理鍵カードです――と、心の中で微笑した。

 トランプくらいの大きさのプラスチックペーパーに、五匹のウサギのシルエットが輪になって描かれている。

 #0108 Rinka Mutuki.
 Link System Control Pattern Card

 水色の文字でそう書かれた下に、二次元バーコードに良く似た複雑なパターン画像が印刷されていた。ウインクするみたいに右眼を閉じて、義眼の左眼だけでその暗号パターンを見詰める。
 こうすると病院にあるサーバーは私が見詰めた画像が特別な解除パターンだって認識する。画像に隠された暗号が、サーバー内の特別な領域に保存されている暗号解と一致すれば、私の一次視覚野に管理画面を送り込んでくれる――ちょっと複雑だけど、こんな仕組みになっていた。
 後は、視線入力。クリックはまばたきで、ぽんぽんと設定を選択して決定ね。
 封筒を開いて、星見会の案内状を引っ張り出した。左手が義手だと、こういう指先が細かい動作は苦手。シフォンケーキのお皿を寄せて、参加希望の解答用紙をテーブルに広げた。封筒を開けるのにも、ちょい苦労するんだから、文字はもっと大変。私は生憎、左利きなの。利き腕を事故で失うって大変だった。左手の義手は、見た目だけは何の不自然さもない。驚くほどに良くできている義手だけど……リハビリ訓練は苦労していた。
 でもね、私、別の方法なら綺麗に文字を書ける。それが、ブラウニーさんが心待ちにしている「五匹遣い」の正体だった。
 管理画面にならぶウサギのシルエットには、すべて花の名前が付いていた。私付きで筆記のお手伝いをしてくれる子は……
「Sakura、お願い」
 車椅子の荷かごに置いた鞄から、ピンク色のウサギのぬいぐるみが飛び出して、テーブルに登った。大きなウサ耳を揺らして、感嘆までも呑み込んでいる様子のブラウニーさんに、ぺこりと一礼。
 さらに、ウサ耳に桜の花びらを飾ったぬいぐるみは、私からボールペンを受け取ると……星見会の参加希望書に名前と電話番号を書いた。参加しますを選択して、花丸を描く。
「リンカー協会の事務局へ届けて下さいね」
 私が微笑すると、ウサギはぴょこぴょこと跳ねてブラウニーさんへ希望書を差し出した。
「すごいです。世界中のリンカーの中でも漢字を書ける使い手は、輪華サンだけですよ」
 まあ、リンカー協会所属のぬいぐるみリンク使いさんの大半は、英語圏の人だからね。
 これが、ぬいぐるみリンクっていう私の特技。仕組みを知らない人が見たら、きっと、魔法か超能力って思うでしょうね。
 これも脳機能バイパス支援技術の応用なの。私は事故で左手、左眼に加えて大脳の一部も失った。本当なら、何も見えないし、こんな風にお出かけも出来ない身体だった。だけど、最新技術のお陰で義眼と義手を自由自在に操ることが出来る。無線通信リンクで義手を動かせるんだから、ぬいぐるみさんでも同じことができる。
 ぬいぐるみの眼が見た物は、自分の目で見た物と同じに認識できるし、自分の手足のようにぬいぐるみを動かせた。
 だから、文字だって書ける。義手の左手よりも、ウサギで書いた方が綺麗に書けるのは、ボールペンとウサギの大きさがちょうどいい関係だからなのかも? と思う。

 ブラウニーさんは、すごく嬉しそうだった。無邪気にはしゃいでいる。こうしてみると、技術屋さんというのは、大人になっても、少年の心をずっと大切にしている人なのかも知れないと思った。だって、反応がお仕事で逢う子供たちと一緒だもの。

 ……えっ? お仕事? 五匹遣いって?
 それは、せっかくのお茶が冷めちゃうから、後で話すね。


♯午後2時15分 

 ……あれ? あれ、あれ?
 ブラウニーさんは、私の向こう一週間分のスケジュールを五匹のウサギさん別に上手く重ならないように組んでくれていた。私の病院内の検査時間もちゃんと避けてくれていた。
 でも、最後に、私、義眼のバージョンアップを入れちゃったんだよね。
 主治医の兎月先生から手渡された新たなスケジュールを加えると、見事にバッティングしまくりだった。
 慌ててブラウニーさんへメールした。スケジュール再編成のお手伝いをお願いした。

 今は定期検診期間だから、今週末までは病院にお泊まりしているけど、来週からは自宅に戻る予定だった。どこにいてもリンカー協会のお仕事ができるように、私のスケジュールはクラウド上にある。
 まれに跳び込んでくる急なお仕事があるのも、リンカー協会の事務局が、担当区域のリンカー全員のスケジュールをチェックしているからだった。もちろん、私たちは身体に不調を抱えている身だから、ヘルプが必要なときもある。他のリンカーさんや事務局のみなさんと、情報共有が普段から出来ていると、支援が的確に届く。
 例えば、突発的な豪雨で交通機関が止まったとするよ。代替輸送のバスは、ものすごく混むし、車椅子対応の車両とは限らない。こんなときには、リンカー協会は支援会員や賛助会員の方で近いにいる人を探して、応援を回してくれるの。私は遠出はあんまりしないから、練習だけで本当に救援を依頼したことはないけど。
 リンカー協会は、私みたいな人の生活の質的向上を目的に組織された。ボランティアのお仕事を探してくれるのも、日常生活の色々な場面でちょっとだけ手伝いに来てくれるのも、そう。
 段差や通信途絶に弱い私のために、スケジュール調整の魔法を発揮してもらうのもね。

 病室のベッドの上でライオンのぬいぐるみと、タブレット端末を抱えて待つこと、五分。スケジュール更新を知らせるお知らせチャイムが鳴った。

 ブラウニーさんが音速で組み直してくれたスケジュールを見て、私は奇声を上げた。芸術的なまでにタイトなスケジュールだったの。少なくとも、ゆっくり屋さんの私には……
 グループウエア内にある私のスケジュール画面を恨めしそうに眺めて、頭を抱えた。
「こんなの、ムリだよぉ……」
 泣き言を言いながら、再度、PHSに手を伸ばして、ふと、気づいた。気を取り直した。
「私、ぬいぐるみリンクがあるから、時間はムリでも、空間は越えられるんだよ、うん」
 ブラウニーさんのスケジュール管理は完璧だった。ちゃんとトイレ時間もあるし、おやつの時間と、泣き言タイムもある……どうやら、どのタイミングで私が愚痴を言い出すのかまで計算済みのようだ。

 ――これなら、できるよね、私。

 どうして、この時、こんな無謀な挑戦を思い立ったのか、これ以上の詳細は覚えていない。ブラウニーさんに伝説の五匹遣いとか持ち上げられたせいか、それとも、シリウスに会いに行くんなら何かお土産にできる話が欲しいと思ったのかな? どっちにしても、私はゆっくり屋さんだってこと、忘れていたの。


#2030年3月19日火曜日 午前9時25分


 ほんの少しのうたた寝。暖房の良く 暖房が効いた部屋で膝掛けをしていると、すご~く眠くなる。ブラウニーさんに肩をとんとんされて、目が覚めた。
「あっ……今、私、居眠りしてました?」
 ブラウニーさんがうなずく。えっと、ぬいぐるみリンクを使っていると、私は自分の身体じゃなくって、ウサギさんを動かしている状態になるから、まるで居眠りしているみたいに見える。これが、結構、クセモノ。私はね、お仕事中なのか、本当に居眠りしているのか、他の人では区別が付きにくいの。
 さすがにブラウニーさんは専門技術者ね。私の量子化通信量をモニターしているので、居眠りに気づいたみたい。
 私がいるのは、豊橋市内柳生川の近いにある小さな児童館。ここで子供会のお手伝いをしていた。ウサギさんのお姉さんっていうことで子供会を訪問している。
 小さなお友達と折り紙をして遊んでいるのは、Suzuran。 つまり、鈴蘭の花をウサ耳に飾った水色のエプロンドレス姿のウサギさんだった。子供たちは、Suzuran を誰が操演しているのか、まだ知らない。ぬいぐるみのウサギが本当に生きている、と思っているかも知れない。だって、Suzuran すごい人気者だもの。
 例のダブルブッキングのせいで出演時間を繰り上げたから心配したけど、小さなお友達がいっぱい待ってくれていた。何か、早起きして眠そうな子もいた。眠気って伝染するんだよね。
「ね、いま、何時?」
 私の問いかけに、Sakuraが反応した。不思議の国の童話みたいに懐中時計を抱えて飛び出して来る。もちろん、私が動かしているんだけど、最近、この子が自分で勝手に動いている気がするの。一次運動野とウサギさんは量子化通信とサーバーを介して繋がっている。手足を動かすときにね、いちいち「さあ、右手を動かすよ」って考えないのと同じ。気持ちがそのままウサギさんに伝わる。つまり、意識を通さないで勝手に動いてしまうの。

――午前9時25分

 つぶらな瞳で私を見上げるウサギさんに微笑み返した。
「Sakura、ありがと」
 ウサギさんたちは、私の負荷を減らすために自身でも簡易AIで動いている。もちろん、必要なときは私がフルコントロールすることもできる。私の操演が常に上位になる設定なのだけど、簡易AIとの制御の切り替えが実にシームレスなの。驚くことに、自分が操演している最中のウサギさんとも会話ができる。これは子供たちに人気の出し物だよ。

「輪華サン、そろそろ時間です」
 ブラウニーさんに促されて頷いた。タブレットでスケジュールを自分でも確認した。
「えっと、ちょっと、羽島まで行ってます」
 ブラウニーさんに行き先を告げて、目を閉じた。管理画面で別のウサギさんを選択する。今度はお仕事。居眠りじゃないもの。

 瞳を開けると、すぐに到着。そこは羽島市にある老人ホームの二階。畳敷きの大広間だった。
「スイちゃん、いらっしゃい。今日こそ、勝からね!」
 予定時間前から、ずっと待っていたらしい藤江おばあちゃんの声が降ってきた。画面にあるこのウサギの名前は、Suiren。つまり、睡蓮なんだけど、この施設の中ではスイちゃんって呼ばれていた。
「はい、でも、負けませんよ」
 今日はこの老人ホームでは将棋大会がある。他に囲碁やカラオケもあるけど、私の対戦相手はもう藤枝おばあちゃんと決まっていた。通算対戦成績は、9勝8敗で私が上回っていた。

 どうしようか? 視界の左端にアンティークなデザインのアナログ時計が浮いている。同時進行している児童館でのイベントで、私とSakuraの出番は30分後。それまでに将棋の勝負を付けないと、オルガンを弾きながら、将棋を指すハメになる。いくら私が器用だからってキツいよ。
 一瞬、サーバーの演算支援を使う誘惑に駆られた。ウサギさんが見た画像はサーバーで処理されて、私の頭の中にある一次から五次までの視覚野に書き戻される。だから、見えるんだけど。
 そのついでに画像の中にある物を判別して、情報を付加する機能もある。ガラスのコップを持つときには義手へ「割れ物注意」って信号を送るのと同じね。将棋の駒を見た場合は、それぞれの駒を動かせる方向やルールも表示してくれる。「二歩」や「歩打ち詰め」みたいな反則をそうなときはちゃんと視界の真ん中にでっかいバッテンを表示することも出来る。まあ、入院生活は暇だらけだからね。こんな所もケアされているの。
 私はこの支援機能にお手伝いしてもらって将棋を覚えた。それにね、ここからはズルだけど、局面ごとに定石や最善手を表示することもできた。「改良型穴熊囲い」みたいな面倒くさいモノを攻略するときも、手駒を全部使い切ったら勝てるか? 駒が足りなくなって負けるか? を瞬時に計算してくれる。
 先月の大会でホームでも古株のお爺ちゃん相手に、これ使っちゃいました。だって、お爺ちゃんたちってば何人も寄って集って相談して指しているんだもの。でもね、三人寄ってもスパコンには勝てないよ。
 だけど、藤江おばあちゃんと指すときは、私は真剣勝負だった。サーバーの将棋支援は全部オフにしていた。治療中の一次視覚野は乱視気味だから支援なしだと、私は角行はちょっと苦手。
 私が振り飛車使いだから、藤江おばあちゃんは角行で対抗してくる。時々、効き筋を間違えて大変なことになるけど、それでも、藤江おばあちゃんとは真剣勝負がしたかった。歳が六十歳も離れているけど、私(スイちゃん)と藤江おばあちゃんは良きライバルだった。勝負に熱くなれる好敵手がいるって幸せなことだと、私は藤江おばあちゃんに教えられたの。

 紫色の着物姿、藤江おばあちゃんが将棋盤の向こうですっと背筋を伸ばし姿勢を正した。
「お願いしますね」
 一瞬だけぬいぐるみリンクから私に戻って、車椅子だけど私も背筋を伸ばした。
「お願いします」
 Suirenは小さなウサギだから、将棋の駒を両手持ちで動かす。結構、大変だから、これも私には良いリハビリになるらしい。ぬいぐるみリンクって、辛いリハビリが楽しくなる不思議な魔法みたいだった。

 病院サーバーは、本当なら私の一次視覚野が行うはずの図形認識も代行していた。その結果を一次視覚野にフィードバックすることで、新しく移植された再生細胞を正しく神経ネットワークに組織化するリハビリをしているの。
 難しい話になるけど、私たちニンゲンさんの大脳新皮質は、厚みが数ミリの六層からなる薄い膜で、コラムって呼ばれる小さな区画に約一万個くらいの脳細胞が組織化されている。そのコラムの集まりがモジュールやフレームで、ニンゲンさんの心はこのフレームの集まりだっていう「多重フレーム・多重知能」っていう仮説もあるんだとか……
 私にとっては楽しい時間だけど、私の脳細胞にはリハビリ訓練になっているし、脳科学の研究者の先生方には私から取れたデータが貴重なサンプルになっているらしい。
 そう、すぐ隣にも、目を輝かしているサイバネティックスの技術屋さんがひとりいるしね。
 ブラウニーさん、曰く、私みたいに自由自在にぬいぐるみリンクを使いこなせる人は少数派なのだとか。私とウサギさんの間を行き交う量子化通信データの中に、脳機能バイパス技術を進化させて、将来、多くの不自由な思いをしている人たちを救うヒントが隠れているはずっていうの。
 そうなったら、いいなと思うよ。

 今日の対戦は、藤江おばあちゃんの勝ち。時間を気にしたせいね。棒銀での速攻作戦がマズかった。うっかり飛車を上げた隙を突かれた。自陣内へ角行に侵入されて端っこの香車を取られた。振り飛車使いの私にとって、香車を取られるのは負けパターンだった。藤江おばあちゃんってば、私がうっかり屋さんをするのを待って、虎視眈々と端っこを狙っていたらしい。
 来月の大会では絶対、勝つからね――と、雪辱を誓って老人ホームを後にした。
 矢倉囲いを上から無理に攻めたのは失敗だったよ。次は、中飛車にしようね。全速力でおばあちゃんが囲いを完成させる前に中央から切り崩しちゃおう。

 児童館に意識を戻すと、ブラウニーさんが待っていてくれた。
「残念でしたね」
 ブラウニーさん、英語圏の人なのに将棋も囲碁も出来る人だった。タブレットに先ほどの藤江おばあちゃんとの対戦再現した棋譜を出して見せてくれた。
「香車を取られた後でも、ここで挽回できましたよ」
 へ? 言われてタブレットをのぞき込んだ。今度はサーバーの将棋支援機能も呼び出して確認した。
 ありゃ。本当だった。あのまま攻めに徹していれば何とかなっていた。訂正。香車を取られて心が折れたのが、今回の敗因でした。
「あの方が輪華サンの強敵ですか?」
 うなずいた。
「私の大切なライバルです。来月は負けません」
 ブラウニーさんの優しい笑顔が嬉しかった。
「さあ、輪華サン、次のスケジュールです」
 もう一度うなずいて、パターンカードをスカートのポケットから引っ張り出した。管理画面で、再び、Sakuraを選択する。これで、Suirenは私の操演を離れて簡易AIで動く待機モードになる。きっと今頃、藤江おばあちゃんが、ぬいぐるみさんに戻ったスイちゃんを抱っこしている……

 気持ちを切り替えた。
 さあ、舞台を始めるよっ!
 耳に大きなピンク色した桜の花びらを飾ったウサギさんが、ぴょんぴょんと跳ねて舞台に向かう。途端に、子供たちの瞳がきらきら。黄色い歓声が、Sakuraの後を車椅子で追いかけて登場した私を迎えてくれた。
 舞台には電子オルガンが用意されていた。Sakuraが先にぴょんと鍵盤の上に跳ね上がった。そのまま、鍵盤の上で飛び回って、演奏を始めた。
「こんにちは、リンカー協会から遊びに来ました。ウサギのSakuraと睦月輪華です」
 小さな子たちのきらきら笑顔に拍手されると、私も元気になれるの。今日はいっぱい演奏しようね。
 するりと車椅子を転がして、オルガンの前に入る。元気いっぱいに鍵盤の上で飛び回ってアップテンポなフレーズをちっちゃな足で演奏しているSakuraと並んで、私も演奏に入った。ぬいぐるみのウサギと連弾演奏って演目は、子供たちにはすごく受けるんだよ。

 そう、私、オルガン弾けるんだ。右足は大丈夫だから、足鍵盤も大丈夫。
 義手の左手で弾くのは、最初は大変だった。電子オルガンって、鍵盤を叩く速さ、つまりベロシティで音の強さを操作するんだけど、これが上手くいかなかった。左手の指に付いていたステッピングモーターって、速度調節が難しかったの。回転角度を正確に指示することが特技のモーターだからね。将来は低速トルクが使いやすい超音波モーターに改造する計画もあるんだけど、それはまだ何年か先の話。しょうがないから電子オルガン側の設定を触って何とかした。
 子供たちと一緒に歌を唄った。オルガンを弾きながら、ウサギを踊らせる。ブラウニーさんは、ぬいぐるみリンクとオルガン演奏を同時にこなすなんて、驚いていた。
 えへ。これ、ものすごく練習したんですよ。

 そんな幸せ気分の時間を突然の割り込み通信が破った。短いメロディーで繰り返すチャイムが十秒ほど。一次聴覚野に直接に信号が届いていた。私にしか聞こえないし、演奏の途中だったから、保留にした。
 歌が一区切りした所で、舞台袖に引っ込んでブラウニーさんにささやいた。何か嫌な感じがしたの。
 左眼の視覚野の端に「Interrupt signal from "Suiren". Has been used the emergency call pattern card.」とか浮かんでいる。何これ?
 小声で英文を読み上げると、ブラウニーさんの表情が変わった。
「Suirenがいる羽島市内の老人ホームで何か至急に連絡を必要とする出来事があったみたいです」
 ぬいぐるみたちは、私が量子化通信リンクで直接に操演しないときも、簡易AIで動いている。おしゃべりは出来ないし、動作も緩慢だけど、非常割り込み用の二次元バーコードを印刷したカードを、待機モードのSuirenに見せることだけなら誰にでもできた。
 私が持ち歩いているのと同じ仕組みの特別な制御カードは、確か……ぬいぐるみ受け入れ先の施設管理者か、スタッフの中でも責任者レベルの方が持っているはず。その使用は、大急ぎで私に連絡を取りたい場面に限られる。正直な所、仕組みはあっても実際に使われる場面はないだろうって感じのカードだった。
「私、行きます」
 祈るような気持ちで瞳を閉じて……開いた。

 真っ白な部屋が見えた。その視界の端に、問題の非常割り込みカードを持つ看護婦さんの姿も見えた。
「ここ、どこ、ですか?」
 ぬいぐるみリンクの管理システムは、Suirenが本来いるはずの場所から移動していることを示していた。通信経路が普段のルートと異なる旨のメッセージが空中に浮いていた。少し遅れて、最寄りの接続ルーターの情報をもとに位置情報が更新された。

 そこは一宮市内の救急病院だった。十七分前の履歴に木曽川に掛かる濃尾大橋付近で通信途絶した履歴が残っていた。川幅が一キロを超える木曽川は量子化通信の圏外だった。複雑な量子化通信の通信可能範囲は残念だけど、かなり狭いの。まだ、実験段階の通信規格と言ってもいい。
 だって、私の大脳新皮質にある数千万個を越える神経コラムの活動データをリアルタイムで、双方向通信しているんだもの。神経パルスって、ほんの一瞬の出来事だから。
 例えば「何か動いている」って情報を処理するためには、私の一次視覚野を読み出して、サーバーで処理して、結果を五次視覚野に書き戻す作業を数ミリ秒で完了しないといけない。スマフォや携帯で使う普通の「高速通信」
じゃ絶対に間に合わない。だって、私たちの頭の中で脳細胞が毎日当たり前に使っている「跳躍伝導」のスピードは音速並なの。頭の中、たった数センチの距離を名鉄特急よりも速く信号が伝わる。
 対して、私を支えている脳機能バイパス技術は病院のサーバーまでの距離を折り返す必要がある。現在の通信インフラの水準では、残念だけど、量子化通信規格を満たす中継ルーターや光ケーブルが限られている。だから、病院から離れるほど、遅い中継機器を潜ることになるから、処理が間に合わなくなる。五秒遅れとかで情報を頭の中に書き戻されでもしたら、正直、乗り物酔いみたいになってしまう。
 低軌道通信衛星ネットワークを貸し切らない限りこの問題は解決できないらしい。そんなお金、さすがに大富豪じゃないとムリだと思う。ちなみに静止衛星は遠いから、だめ。量子化通信規格に対応する衛星がないの。遠いから改修も当分期待できない。

 私があまり遠出できない理由は、これなの。もちろん、短時間なら通信途絶したって死んだりしない。ただ、何も見えないし、身体の左半分が動かせないだけ。だけど、それは……怖いの。
 ぬいぐるみリンクは、この点が優れていた。だって、ぬいぐるみだもの。通信負荷を減らす工夫が出来る。ぬいぐるみ側でデータを圧縮処理できるし、ぬいぐるみ単体でも簡易AIで自律動作できる。それに可動範囲も少ないから操演にかかる通信負荷も少ない。

 事情は老人ホームの担当の方から教えてもらった。藤江おばあちゃんは、私との対戦の直後に倒れた。ウサギのスイちゃんを抱いたまま……
 すぐに救急車で搬送されたけど、おばあちゃんがスイちゃんを握りしめていたから、そのまま救急病院までSuirenを運んだのだそう。
「ご迷惑をおかけして済みません」
 とホームの担当者の方は詫びてくれたけど、私は藤江おばあちゃんがスイちゃんを必要としてくれたのなら、応えたいと思った。

 ぬいぐるみ姿の私は、不安な気持ちを抱えたまま、病室の片隅で待つしかなかった。
 時々児童館へ戻って、子供たち相手にオルガンや折り紙教室をした。ぬいぐるみのSakuraやSuzuran が器用に折り鶴を折る有様に子供たちは眼をまん丸にしてくれた。私は、Sakuraが折った折り鶴をひとつぎゅっと胸元に抱いて、藤江おばあちゃんの無事を祈った。

 その日は夜が更けるまで、一宮市内の救急病院と、豊橋市内のイベント会場を意識だけで往復を繰り返した。
 しょんぼりしていた私を励ますためだろう。今日の日程を全部こなし終えた後、ブラウニーさんは、駅前大通に面したおしゃれなオープンテラスで夕食をご馳走してくれた。

 お醤油味の和風きのこパスタを食べ終えた直後だった。ブラウニーさんの携帯電話が鳴った。不安な顔のまま、ブラウニーさんが電話の向こうと話す言葉に聞き入る。短いのやり取りの後、ブラウニーさんは私に向き直った。出逢ってから数日だけど、今までで一番に優しい声が私に告げた。
「輪華サン、あなたを待っている方がいらっしゃいます……たぶん、お別れの挨拶になると思います」
 心臓が痛かった。人形みたいに、ぎこちなく頷いた。

 老人ホームから駆けつけたお爺さん方やスタッフのみんなに囲まれて、藤江おばあちゃんは私を待っていた。
「スイちゃん、ごめんなさいね」
 ぬいぐるみのSuirenは枕元に跳ね上がると、そのままシワシワの指に抱きすがった。
「そんな……藤江おばあちゃんっ! いやだよ、こんなの……」
 シワシワの指が私のウサ耳を撫でた。身寄りのないおばあちゃんは、ウサギのSuirenをまるで孫娘のように可愛がってくれた。演じていた私は、嬉しくって仕方なかった。
 藤江おばあちゃんは、私を待っていてくれた。最期に悪戯っぽく微笑した。
「……スイちゃん、輪華さんっていうのでしょ。大変な身の上みたいだけど、私が空の上からいつも見ているから、あなたはまだ若いんだから……」
 藤江おばあちゃんの言葉に、かすれた言葉が途切れるたびに、うんうんと頷いた。おばあちゃんは、スイちゃんを操演している私のこと知っていたんだ。
「あなたは優しくって賢い子だから、だいじょうぶだよ……」
 藤江おばあちゃんは、私にそう言葉を遺して、ずっと遠くへ旅立った。
 こんな身体じゃなきゃ、私、絶対におばあちゃんに直接、会いに行きたかった。

 豊橋駅前のオープンテラスに戻ったら、不思議と気持ちが落ち着いていた。心配顔でおろおろしているブラウニーさんに、「だいしょうぶだよ」って微笑してみせる余裕も残っていた。きっと、藤江おばあちゃんが私にちゃんとお別れの挨拶をしてくれたからと思う。寂しいけど、痛くはなかったの。

 車椅子に掛けたまま、ぼんやりと路面電車を眺めていた。再生医療と量子化通信技術、サイバネティックス技術の塊みたいな私の瞳に映る路面電車は不思議だった。街並みもそこを行き交う人々も全部変わってゆくのに、大正時代からこの路面電車だけは変わらない。
 そんな景色が私に想起させたのは、ぬいぐるみリンクの限界と可能性――
 ぬいぐるみリンクは、病院の傍を離れられない私にとって、色んな人たちと会える魔法のコミュニケーションツールだけど、増えるのは楽しいことだけじゃない。出会いがあれば、悲しいことも増える。
 藤江おばあちゃんは、私をウサギのスイちゃんとして可愛がってくれただけでなく、睦月輪華としても慮ってくれた。私、どんなに通信途絶が嫌いでも、藤江おばあちゃんとは一度でいいから、睦月輪華として将棋を指してみたかった。失ってから、こんな大切な想いに気づくなんて、私、やっぱりダメダメだ。

 大切な人を亡くすのは、これで三人目だった。
 だけど……
 お別れは悲しいけど、でも、何とか毎日、ちゃんと、きっと、笑おうと思う。
 私たちは、微笑うために生まれて来たんだと思うから。



 それは、痛くって悲しくって、悔しくって、忘れたいのに、忘れてはいけない――そんな記憶だった。もう、二年前になる涙が枯れるまで泣いた記憶たち。

 2028年4月28日 月ようび、はれ。
 朝、数学の宿だいを忘れた。昨夜、おそくまでがんばってって因数分かいのドリルをといたのに、お家の机の上に忘れてしまった。
 友花にドジって笑われた。先生に……

 ――こんなの違うっ!

 日記帳の続きに、ウソを書いて自分をごまかそうとした。すぐに視界が潤んで何も見えなくなる。無理矢理に右手で書いたから文字が前日分と比べて倍以上も大きい。漢字も画数が多いと書けない。余白にまではみ出して――ボールペンを投げた。

 何をやっているのよ、私。

 病室の床に転がったポールペンを拾おうとしたら、とんでもなく大変だった。車椅子に座っていると、床に転がったボールペンに手が届かない。利き手の左手が不器用な義手になってしまったから、逆の右手でやろうとすると、余計に変になる。
 あっけなく床に転がった。

 床に倒れたまま、じたばたもがいていたら、通りかがった看護婦さんが気づいて駆け寄ってくれた。抱き起こされた。
「書き物でしたら代筆しましょうか……」
 ベッドの傍らにある折りたたみテーブルに日記帳があることに気づいたらしい。
「見ないでっ!」
 看護婦さんの優しい声を遮った。
 不器用な右手でうそつきな日記帳をひったくった。胸に抱いた。
「……見ないで、下さい」
 私の泣き顔に、一瞬だけ戸惑うような視線が横切る。でもそれは一瞬。ベテランの看護婦さんは、にっこりと涼やかな笑みを揺らした。
「後で、また、来ますね」
 それだけ言うと、私をひとりにしてくれた。


 4月28日月曜日、私は忘れ物をした。だけど、バス停に向かう途中で気づいて、一度、家に引き返した。
「どうしたの? 輪華」
「忘れ物、数学ドリル……」
 慌てて鞄にドリルを放り込んで、ぱたぱたと走って玄関へ駆け戻った。
「輪華、慌てないで気をつけて学校行くんだよ」
「はーい」
 確か、そんなやり取りをお母さんとしたはず。「気をつけて」と言われて、返事をしたはず。
 玄関を飛び出ると、友花が待っていてくれた。
「輪華、速くしないと、バス、いっちゃうよ」
「うん、ごめんなさい……」
 このあと二人で走ったけど、いつものバスに乗り遅れてしまった。それが、悪夢の始まり。幸せのおしまい。
 次のバスが来るまで、バス停で二人おしゃべりをして待った。何度も何度も繰り返した日常だった。ずっと、繰り返すと思っていた。


 だけど――この直後に、交通事故が起きた。衝突した二台の自動車のうち、ひとつが弾かれて歩道に……私と友花がいたバス停に飛び込んできた。

 実は、記憶が混乱していて、良く覚えていない。友花の暖かさだけが、私の身体のどこかに残っていた。
「りんか、ずっと、いっしょだよ」
「りんかは、あたたかいね」
 そう言われたような気がする。でも、自信がない。私は、小さい頃から友花のお家に良くお泊まりに行っていた。去年の冬場もそう。スーパーでバイヤーをしているお母さんの仕事は年末年始はいつも忙しい。ひとりで留守番するのが嫌だから、こんな時は、いつも友花の所へお泊まりに行っていた。一緒のお布団で寝たこともある。
 だから「あったかい」や「ずっといっしょ」はいつもの言葉。
 でもね、もしも、友花が最期に私に言葉をくれるとしたら、きっと、この言葉だとおもう。
 後で病院関係者から聞いた話だと――ぐったりした友花を私が抱いて、必死に助けを求めて叫んでいたっていうの。駆けつけた救急隊員に「お願いします、友花を助けて」って泣きすがったとか……
 全然、記憶がない。
 長い昏睡の間にそんな恐ろしい記憶は綺麗さっぱり消えたらしい。
「記憶の整理を担当する海馬の歯状細胞は酸欠ショックに弱いから、辛い記憶は消えたのですよ」
 と主治医の兎月先生は笑うんだけど……お医者さんスマイルって、半分は医療行為だからどこまで事実なのかなあ?

 あのとき、友花は私を庇った。
 私が逃げ遅れたから。
 私が宿題を忘れたから、あの場所に居合わせてしまった。
 友花はいつもいつも私を守ってくれた。
 本当は、今度は、私が友花を守らなきゃいけなかったのに。
 友花はずごく優しくって、勉強も運動も合唱も全部、優秀で……何より、私の「お姉さん」みたいだった。同学年なのにね。

 私にないものを、何でも持っていた友花だったけど――たったひとつだけ、私は友花が持っていない物を隠し持っていた。
 冷凍臍帯血っていうそれは、私も実は実物を見たことがない。臍帯血の中にある造血幹細胞から、再生治療の種になる多機能細胞が作れるようになったのは、ほんの数年前。
 現在は、ほとんどの病院で新生児の臍帯血を保存するようになったけど、私や友花が生まれた頃は、あまり、臍帯血なんて重要視されていなかった。私がそれを持っているのは、お母さんのちょっとした気まぐれ。
 だけど、私は冷凍保存された臍帯血からいくらでも再生治療に必要な多機能細胞を作れる。左手、左眼、脊髄や大脳の一部を失っても……ほら、見た目は全然、大丈夫。義眼の表面も再生された角膜で覆われていて、虹彩だって「見た目だけ」は本物なの。看護婦さんからは水着だって大丈夫と言われた。
 お医者さんが言うには、脳機能バイパス技術があるから、脳細胞の再組織化リハビリが進めば、歩行も含めて全部元通りにできるらしい。(まあ、量子化通信の圏内に限られるけどね)

 だから、交通事故に遭ったら普通に死んでしまう友花じゃなく、私だけが事故車にぶつかれば良かった。たとえバラバラにされたとしても、元に戻れるかも知れないし、友花の代わりになれるのなら、どんなに痛くても…… それなのに、何で私だけ生きているんだろうね。


 一次感覚野と義手を繋ぐリハビリは上手くいかなかった。視覚や聴覚と違って体性感覚は無意識でのフィルタリングが効きにくいっていうのが原因のひとつ。
 例えば人混みでごっちゃごっちゃの駅で電車を乗り換えたとするよ。光や音の刺激が洪水のようにあるけど、私たちの頭の中は刺激のすべてを意識に伝えないように巧妙にフィルタリングしている。だって、自動改札を通ったとき、ドアの傍ですれ違ったとき、ちゃんと他人にぶつからないように歩調を合わせたはずなのに、その他人がどんな人だったか? 覚えてないでしょ。
 でもね、偶然に知人と行き会って名前を呼ばれたら、すぐに気がつく。「カクテルパーティー効果」って呼ばれていると兎月先生から聞いたけど、自分にとって大切な情報はちゃんと意識に割り込むように出来ているの。雑踏の真ん中なのに自分を呼ぶ声だけ鮮明なのは、大切な人の声ならば記憶を頼りに、音声情報の不足を補ってでもちゃんと聞こえるようにする働きが、私たちの頭の中にはあるんだとか。
 だけど体性感覚はちがう。視覚や聴覚と違って、熱い、痛いって感覚は直ちに身体が反応する。そうしないと火傷や怪我をしてしまう。画鋲を踏んで飛び跳ねるのは脊髄反射だけど、同時に意識にも強制的に「きゃあ、何か踏んだっ!」って割り込みがかかる。たとえ大事な考え事をしている最中でも遠慮しないで意識を書き換えてしまう。

 残念ながら、私の感覚野は脳機能バイパス技術と相性が悪かった。
 義手が備えている圧力や温度、加速度なんかのセンサー類は、あまり性能が良いとは言えなかった。義手は義眼と比べて大きいし可動部分が多くで構造も複雑。いくら抵抗膜式の圧力センサーをたくさん付けても、本物の手の繊細さとは比べものにならない。
 とにかく、この義手は何かに触れるたびに、全く感じないか、火傷しそうなほどに痛いかの両極端の反応しか返さなかった。
 私、事故に遭うまでは卵を片手割りできた。目玉焼きも、ホットケーキも、だし巻き卵も得意メニューだった。
 それなのに、何度練習しても生卵を落としたり、握り潰したり。はっきり言って義手は気持ちの悪いガラクタと感じた。
 兎月先生を始め病院スタッフ皆様の名誉のために付け加えると、みんな本当に私のために一生懸命だった。だけど脳機能バイパス技術はまだ発展途上の技術なの。


 そんな惨めな毎日にとらわれていた、ある午後のことだった。
 りんごを剥いてくれた果物ナイフが、差し入れの籐籠の隣に置き忘れてられていた。私は、気づくと――それをじっと見詰めていた。
 死んでしまいたいと思ったのは、それが初めてだった。だって、いつも傍に友花がいたから、こんな嫌な考えが浮かんだことなんて今までは、一度もなかった。だけど、もう、友花はいない。
 左手を伸ばした。ステッピングモーターの機械音がした。そして――

 えっ?

 視界の真ん中に紅い文字で「緊急停止」と浮かんでいた。邪魔なことに、首を振っても、どこへ視線を向けても視界の真ん中から、紅い文字はどいてくれない。

 ……不安全行動を検知したためシステムを緊急停止しました。医師が到着するまでお待ち下さい……

 視界の文字がさらに増えた。
 そして、気づいた。私、無意識のうちに、果物ナイフを自分に向けていた。

 兎月先生は私を責めなかった。逆だった。すごく優しくって、辛い思いをさせている技術不足を詫びてくれた。なのに……
「友花はいい子だから神様が天国へ連れて行ってしまいました。私は、ダメな子だから、こんな場所に残されて……」
 うわごとみたいにつぶやいた。
 先ほどまでナイフを握っていた左手をじっと見詰めて、言ってはいけない言葉をつぶやいた。
「……どうしたら、ちゃんと、死ねますか?」
 ナイフは微かに私の胸元に傷を残していた。
 義手に安全装置が組み込まれていなかったら私は本当に大変な怪我を負っていたかも知れない。兎月先生は深いため息の後に、震え声でこう言った。
「輪華さんが生きていて良かったと思える時が来るように全力を尽くすから、もう、そんなことは言わないで下さい」
 私は、本当にダメな子だと思う。一生懸命にして下さる兎月先生にも何も言葉を返せなかった。ただ、苦しくって髪を乱して首を振っただけだった。

 こんな事件を引き起こした私を、兎月先生や病院スタッフの方々は本当に心配して下さっていた。情けないけど、私は泣いているばっかりで大切にされていたことに気づかなかった。今更に思い出すと恥ずかしいほどに取り乱していたし、兎月先生にも看護婦さんにも酷いことを言った。本当にごめんなさい。
 ダメダメで何も出来ない私に転機が訪れたのは、翌週のことだった。先生方は、その当時まだ準備会段階であまり一般にはその存在を知られていなかったリンカー協会に私のことを相談していたの。


♯2029年2月14日 水曜日 午後9時

 次に差し入れとして、私に届けられたのは、可愛い丸っこいライオンのぬいぐるみだった。

 涼やかな鈴の音のようなチャイムが耳元で鳴った。見回す。あれ? あれ? 何か変だってすぐに気づいた。その鈴の音は、どこから聞こえているのか、解らない変な音だった。
 起床や消灯時間を知らせる音楽は、病院内のあっちこっちの天井に埋め込まれた放送設備から流れていた。検査室とかには、患者さんの不安を和らげるために環境音楽が流れていた。でも、それはスピーカーがどこかにあるっていう音だった。でも、その鈴の音は音源がどこにもないの。直接に頭の中で響いていた。

 「シリウス」からリンカー間通信の申し込みがあります。お受けになりますか?

 視界に水色の文字が浮かぶ。
 シリウス? お星様のこと? リンカーって? ハテナだらけになって首を傾げていたら、腕の中にいたライオンのぬいぐるみが、もぞもぞも動き出した。
「ぼくのことだよ」
 微かに電子ノイズの乗った可愛い男の声がした。ライオンが私を見上げていて、視線が合うと、そいつはシッポを振った。

 ――シリウス?

 聞き返すと、オレンジ色で丸っこいライオンのぬいぐるみは、嬉しそうに頷いた。
「そう、僕はシリウスって言うんだ。泣いている子がいるって聞いたから……君のこと、少しだけ、助けに来たんだ」
 可愛い声がふさふさのシッポを今度は元気よく振った。ぷっと、思わず吹いてしまった。だって、こんな小さくて丸っこいのが、こんなにボロボロの私を助けに来たって、大真面目に言うんだもの。笑えちゃった。
「これは、どんな冗談みたいな夢なのかなあ」
 あきれ顔でそう言葉を返した。悪夢なら、もう見飽きていた。
「夢でも、不思議でもないよ。僕も、君と同じ。脳機能バイパス技術の応用で動いているんだ……」
 今度は反射的に左腕が動いた。ステッピングモーターの高音の唸りと共に、丸っこいライオンが病室の壁まで飛んだ。怒気がそのままサーバーに伝わった。勢い余って、左手の義手がテーブルに飾られていた花瓶まで吹き飛ばした。
「あなたに何が解るって言うのっ!」
 嫌悪感が津波みたいに私の中で渦巻いていた。私の身体の四分の一が気味の悪いガラクタになっていた。大切なものを失った埋め合わせが、これって言うのは酷すぎだと思った。なのに、この可愛い顔した丸っこいライオンが、義手と同じ技術で動いているって、得意顔に自慢して、ふさふさのシッポを振っているんだよ。もう、こんなの嫌だよ。
「大丈夫。僕はぬいぐるみだから、どんなに殴られても痛くはない。だけど、ひとりだけになるのは嫌なんだ。だから、仲間を見過ごすことができないんだ」

 ――仲間?

 この義手や義眼のことを言っているの? 薄ら笑いをしていたと思う。やっぱり、偽善じゃない。私のこと、解っていない。私が失った大切なものは……
「ひとりぼっちになって、泣いている子はみんな僕の仲間だ」
 ――えっ? このぬいぐるみ、友花のことも、知っているの?
 私の中で紅い血が沸騰した。
「誰が話したのっ! 私と友花のこと……」
 ふわふわのライオンを右手で掴んで何度も床へ叩き付けた。傷だらけの心の中まで見透かされるのは絶対に嫌だった。
 床にうずくまって泣いた。ずっと、友花を呼び続けていた。悲しいとき、困ったとき、嬉しいとき、忘れ物をしたときも、お弁当の時も……いつも待っていれば、友花が来てくれた。少し舌っ足らずな甘い声がして、髪の匂いがした。すごく苦しい今は、友花のあの声が恋しい。だけど……
 滅菌処理されたガラスに囲まれたこの部屋には、誰もいない。機械しかいない。ひとりもいない。私だって、四分の一が機械で、義眼にされた左眼は、どんなにソックリでも偽物だから涙も出ない。右目の視界だけが潤んでいる。左眼の視界は相変わらず、昔のテレビみたいに画素が荒いまま。
 気が付くと、淡いコスモスの花を一輪だけ持って、丸っこいライオンが待っていた。私が泣き止むまで、コスモスの花を持って待っているつもりだったに違いない。少し胸が痛い。でも、動くたびに微かにモーター音が聞こえるコイツも、機械だ。
「そう、私は、ひとりだよ。今も、この部屋には私、睦月輪華の四分の三しかいない」
 友花と私、ふたり一緒で一組の存在だった。あの交通事故は、友花とわたしの四分の一を天国に持って行った。残された「睦月輪華の四分の三」はここでガラス張りの部屋に閉じ込められている。
「そんなこと、ない。僕がここに……」
 必死に言いすがるライオンの言葉を遮った。
「いないって、言っているでしょ。誰も、この部屋には今はいないの。私も、友花も……あなただって機械じゃないの」
 私の薄ら笑いが震えていた。
 思うように動かない左腕。片眼だけの涙。こんなに失って苦しくても、泣くことすら、ちゃんとできない。
「あはは……シリウスくんって言ったよね。ムリしなくってもいいんだよ。私もあなたもガラクタなんだから」
 片眼だけから涙があふれた。狂ったように、天井を仰いで大笑いした。「ガラクタ、ガラクタ……」ってうわごとみたいに繰り返して、「あはは……」っと息が苦しくなるまで笑った。このまま気が触れてしまえばいいと思った。
 だけど……シリウスが言うの。

 ――違う。どんな姿になっていても、何を失っても、僕は人間だ。こうして仲間を求める心がある限り、大切な人たちと離れることを悲しいと思う限り、僕は、僕のことを人間だって言い続けるよ。

 不意に気づいたの。
 この子、きっと、私よりも症状がずっと重い。私の言葉に数秒間遅れで電子ノイズの乗った言葉が返るのは、自動翻訳のためだけじゃない。きっと自由にならない身体で大変な思いをして言葉を綴っているはず。
 沸騰していたはずの私の中が、急に寒くなった。シリウスという名のライオンを、再び抱き上げた。
「ごめんなさい。言い過ぎました。あなたは人間です。私は自信ないけど……」
 手渡されたコスモスの花は鮮やかで、でも……感覚を制限された左手の義手で受け取ったから気づくのが遅れた。そのコスモスの花は存在しない。私の視覚野にだけ見える。
「僕の病室に飾られている花だよ。綺麗だから一輪だけ、輪華さんにあげる」
 うん。綺麗だね。
「少し疲れちゃった……」
 初めての夜は、シリウスの消え入りそうな言葉で不意に終わった。後に残ったのは、すごく気まずい私のため息。
「……私、シリウスに酷いこと言っちゃった。どうしよう」
 その夜は、次にライオンがしゃべり出したら、なんて謝ったらいいのか? そればっかり考えていた。

 それから毎夜のようにシリウスは私の話し相手になってくれた。本当にガラクタになってしまいそうだった私の壊れた気持ちを繋ぎ止めてくれた。シリウスは私にとって二人目の親友になってくれた。
 本当に短い間だったけど、シリウスのことは、私は自信を持って親友だって言える。



♯2029年3月17日 土曜日 午後9時15分
 
 三月も中旬というのにその夜は寒くって雪が混じる北風がガラス窓を叩いていた。国際郵便で、私に初めてのぬいぐるみが届いたのは、もう、午後九時を過ぎていた。
 シリウスの容体が悪くなったらしいって、兎月先生に教えられた。親友になれた思って間もなくのことだった。だから、私は……私もシリウスと同じことができる、私のぬいぐるみを求めた。シリウスが私に何を望んでいるのか気づいたから、私もシリウスと一緒になりたかったから。

 シリウスが差し出しのは、小さな星だった。もちろん一次視覚野にだけ見える量子化通信で送られた星。
 だけど、それは――
「その星はぬいぐるみリンクシステムのアーカイブなんだ。輪華は僕の仲間になってくれるかい?」
 うなずく。
「お願いします。私も、シリウスと同じ、リンカーにして下さい……お願いします」
 シリウスの望みを叶えたかった。シリウスと仲間になりたかった。シリウスと繋がりたかった。
「ありがとう。輪華はちょうど108番目だよ」
 私はシリウスと兎月先生に手伝われて、サーバーと私の頭の中に、ぬいぐるみリンクのシステムをインストールした。
 それから、ぬいぐるみに意識を移して操演する特殊な感覚はシリウスに導かれて覚えた。ぬいぐるみリンクはサイバネティックス技術でも特殊な物なの。一次視覚野、一次聴覚野、一次運動野、一次感覚野を同時に量子化通信に委ねるって感覚が特殊だった。その感覚への「気づき」にはコツがいるの。私が五匹使いって呼ばれているのも、きっと、シリウスから直にこの特殊感覚を習ったお陰と思う。
 百体を超えるぬいぐるみを使いこなしたシリウスに比べたら私なんて、まだまだだけどね。
 淡いピンク色をしたエプロンスカート姿のウサギさんは、最初、シリウスが動かした。その操演イメージを、量子化通信越しに私とシリウスで共有したの。私は、練習を始めて三十分ほどでウサギさんを思いどおりに動かせるようになった。
 歩けないはずの私の膝の上で、私の意識を宿した可愛いウサギさんがぴょんぴょん跳ね回っていた。もう諦めていた歩くこと、走ることが出来たって感覚が嬉しかった。
 シリウスからは「輪華は筋がいい」って褒められた。それも嬉しかった。

 だけど、シリウスは私を導くために本当に無理をしていた。それなのに、心配になって「また、明日に……」といっても、聞き入れてもらえなかった。シリウスに残された時間は、なかった。
「薬と、経済的な支援と、同情を与えられるだけの存在で終わるのは、嫌だった」
 ライオンを撫でる。ふさふさのシッポが揺れる。私とシリウスの話す様子は、病院サーバーを経由して、世界中のシリウスの仲間たちにも送信されていた。
 私への最後の授業がそのまま、お別れの挨拶になったの。たぶん、シリウスと名乗る青年の容体が限界に達したのだと思う。シリウスのいる病院から、リンカー協会準備会へ緊急の知らせがあった。シリウスが最期に私をどうしても導いていくと言って聞かないから、世界中のリンカーへの同時送信になったの。
 
「たとえ、何もかも失って身体のほとんどが機械になっても、みんなと別れるのは悲しいと思う気持ちがある限り、僕は人間だ。だから、与えられるだけの存在ではなく、誰かと繋がって、どんなに小さな物でもいいから、この世界に足跡を残したい」
 
「輪華には、僕の思いを引き継いで欲しいんだ……」

 ぽつぽつと紡がれる言葉に、小さくうなずいた。世界中にいるシリウスの親友たちにも、このやり取りが送信されているのを知っていた。だけど、恥ずかしくっても、シリウスに伝えたかった。
「私は……」
 すっと息をして、黄色いライオンをぎゅっと、抱きすくめた。
「私たちは、笑うために生まれてきたんだと思います」
 これは、友花やお母さんの言葉であるの。日本語の「咲く」には「笑う」という意味もあるの。だから、私の輪華という名前は、みんなで輪になって笑うっていう願いが込めてあるんだとか…… お母さんの恥ずかしいそうな声がそう教えてくれた。だって、ひとりじゃ楽しく笑えないでしょ。
「じゃあ、私は、輪華といっしょに毎日毎日笑うわ」
 友花の狙い澄ましたような透明な笑みは今でも鮮やかに覚えている……

 ――シリウスにそう伝えた。
 だから、シリウスも私といっしょに笑おうってね。
「……明日」
 言葉にするのは怖かった。明日は無理だと判っていた。だけど、言わなきゃいけないと思った。
「明日もいっしょに笑おう」
 少し驚いたような、戸惑うようなシリウスの小さな息づかいに、私は一生懸命に弾んだ声を重ねた。本当は泣きそうだった。

 翌朝、シリウスと名乗っていた青年が亡くなったことを知らせるメールが私のタブレットにも届いた。もう、丸っこいライオンは動かなくなった。

 その数日後に、私はシリウスがどんな人だったのかも知った。
 シリウスは私よりもずっと酷い脳機能障害を負った青年だった。不幸な事故に遭わなければ、世界中を旅して回っていたに違いない。そんな人だったの。
 まぶた以外、何も身体を動かせないそれくらいに苦しい思いをしていた。そんな有様なのにシリウスは、世界中の人たちとコミュニケーションする夢を諦めきれずに、ぬいぐるみリンクシステムを支援者の方々の協力の下に作り上げてしまった。
 そのぬいぐるみシステムは、絶望の深い海の底に沈んでいた私を救ってくれた。重苦しい海底から、ちゃんと星が見える浅瀬まで私を引き上げてくれた。
 シリウスって名前は、彼自身が考えたものらしい。きっとそうだって気がした。全天球中で一番に明るい恒星。見えなくっても、そう想えば、みんなと星座みたいに、繋がっている――そんな存在になりたかったんだって思う。


♯2029年3月27日 火曜日

 シリウスが亡くなって間もなく準備会だったリンカー協会から、正式発足へのお知らせが届いた。ちょうど、お昼ご飯の後、病室の窓際に座り、たくさんある食後のお薬をぽつぽつ飲んでいた時だった。
 嬉しいことに、私も発足メンバーの末席に付け加えてもらえた。リンカーになりたいと言ったのは僅か十日前、何もお手伝いとかしてないのに。後でブラウニーさんから聞いたんだけど――書類に私の名前を書き足すのって、ものすごい突貫作業だったらしい。だって日本国内では、特定非営利活動法人としてリンカー協会は手続きされているけど、国や州によって制度が違うからね。
「国際的な支援組織を民間ベースで立ち上げる作業は、とてもエキサイティングな体験でしたよ」とは、ブラウニーさんの言葉。音速で仕事を片付け、マシンガンのように会議をこなす人たちの集まりが、リンカー協会の実体らしい。道理でブラウニーさんが早口なわけだ。

 でも、各国に設けられたリンカー協会に共通している理念はひとつ。
 シリウスはリンカーを「想いを繋ぐ者」と定義していた。私たちはぬいぐるみリンクで空間を越えたコミュニケーションができる。それも電話やテレビ会議と違って、触れることができるて五感で感じられる。大脳新皮質の一次運動野やあっちこっちの感覚野とぬいぐるみが、直接に双方向通信をできるんだもの。本当にその場所にいるのと変わらない、技術の許す限り本物に近い感覚が得られる。何と言っても、ぬいぐるみだから、だっこしてもらえる。
 だから、あの時の私みたいに、独りぼっちで悲しい思いに潰されている子を救いに行くことができる。だって、ぬいぐるみだもの。どんな想いも自然と話してもらえるし、シリウスが私にしてくれたように、激しくて凍傷を負いそうなほどに凍り付いた気持ちを受け止めることもできる……はず。だって、投げ飛ばされても痛くない。(本当は気持ちが凹むけど、そこは頑張るしかない)
 だからね、「リンカー」っていう言葉は、脳と義手や義眼みたいな機械が通信技術で繋がっている人、という意味じゃないの。サイバネティックスって技術は、脳と機械のインターフェイスだけじゃない。通信技術が、社会や人の繋がりにどんなお手伝いができるかな? を叶えてゆく技術だと思う。
 最初にもらった淡いピンク色のウサギさん、名前はSakuraにした。名前のとおりに、耳元にピンク色をした桜の花を飾った。とにかく頑張ろうと思った。

 それから約半年間あまり、私はリンカー協会が用意してくれた通信教材で、ぬいぐるみリンクについて学んだ。


♯2029年12月14日 金曜日

 待ちに待った最初のお仕事は、私が入院している総合病院の中だった。私がいる再生治療病棟とはお隣にある小児科病棟にお邪魔することになったの。
 病院施設内だから量子化通信は完全に院内ネットワーク内で完結する。窓の向こう中庭を挟んで隣の小児科病棟なら、私の病室からでもウサギさんを操演できるんだけど、初心者だから、リンカー協会から派遣された指導員さんに付き添われて小児科病まで出向いた。
 出し物はウサギのSakuraとのオルガンの連弾演奏で誰もが知っているクリスマスソングを弾いた。もちろん今よりもずっと下手くそで、鍵盤を踏み間違えたりもした。でもね、すごく嬉しかったの。つまらない顔をしていた小さな子供たちの笑顔が急に弾けるんだもの。後は、プレイマットの真ん中に入院や通院の子供たちを集めて、サンタクロースの絵本を読んだ。

 初めてのお仕事で、小さな子たちから勇気をもらった私は、Sakuraを操演して電子オルガンを弾く練習を何度も繰り返した。黒鍵盤が小さくって、ウサギの足では踏み外しちゃうけど、それでも何とかできるようにした。
 頸椎を損傷して左足の自由が効かない私にとって、ウサギのぬいぐるみを操演する作業は、再生治療中の脳にとって大切なリハビリになるらしい。それに、何もできないまま病室の中で縮こまっていたら、精神的に参ってしまうでしょ。シリウスの唱えた「想いを繋ぐ者」にリンカーがなろうとする意味は、みんなのためでもあるし、自身のためであるの。
 ニンゲンさんはお互いに助け合う生き物だから――それは元気な人も、私みたいにリハビリ中の人も変わらないと思いたい。
 ちゃんと生きているっていうのは、人の輪の中にいて、一緒に誰かと笑えることだと思うの。だから、色々と大変だけど頑張ろうと思った。

 ウサギさんとのオルガンの連弾は思いの外に評判が良くって、病院近くの幼稚園からもお仕事を頂くことができた。
 藤江おばあちゃんのいた老人ホームも、幼稚園に通うお孫さん経由で噂話が伝わって、ご依頼を頂いた。人の輪って、広がり始めると不思議と繋がっていくものなんだと、きっかけを作ってくれた小さなお友達に感謝した。
 嬉しくなって持ち込まれた話を全部、引き受けた結果が五匹遣い。幼稚園にはTulipaを、老人ホームにはSuirenを……そんな感じで、病院外の場所には新しいウサギさんを増やしていった。
 そして――病院の傍と、量子化通信対応光ケーブルが敷設されている東海道新幹線沿いの町ばっかりだけど、私の願いを形にできしてくれるウサギさんたちは、色んな街角で今も大きな耳を揺らしている。

◇  ◇


♯2030年3月20日 火曜日 午前9時30分

 いつもより早く起床して、スケジュール表を頑張って暗記した。今日はとにかく大忙しだった。

 最初に訪れたのは、紙で作られた紅いカーネーションで飾られた卒園式。気の早い桜の蕾が、もう開き始めていた。講堂の片隅、来賓席の末席に車椅子を寄せた。
 本当は私みたいな未熟なお手伝いさんが来賓席になんて恐れ多くて……でも、保母さんだけでなく園児さんやご父兄からも是非にとお誘いを頂いた。それで、ブラウニーさんに付き添われて、絵本の時間担当だったTulipaを伴い参列させて頂いた。
 私、礼服なんて持ってないし、それに休学ばっかりだけど一応は学生だから、制服で参列した。僅かな間に見違えるほど立派になって卒園証書を受ける子供たちを見ていたら、私までもらい泣きしてしまった。



♯午後1時30分

 今度は病院内の小児科病棟へ。長期入院している女の子、佳乃子ちゃんの九歳の誕生日会に招待されていたの。
 入院生活が長い私にとって、この子はいつの間にか妹みたいに思えていた。そう、友花が私にしてくれたように、私が友花を慕っていたみたいに、そんなお姉さんになれたらいいなと思った。だから、私付きのウサギさんSakuraと一緒に、ささやかなお誕生日会を開いた。佳乃子ちゃんのご両親や小児科病棟の先生方も忙しい中を駆け付けてくれて、佳乃子ちゃんはとても幸せそうに笑ってくれた。



♯午後3時30分

 幸せな笑顔の次に向かったのは、お別れの場所、藤江おばあちゃんのお葬式。ブラウニーさんにお願いして羽島市まで車を出してもらった。時間が全然ないから、東名高速道路を使った。途中で何度も量子化通信の圏外になって、目の前が真っ暗になった。でも、我慢すると決めていた。最期のお別れだけは、直接に会ってしたかったの。
 藤江おばあちゃんは、やっぱり幸せそうな笑みを微かに含んだ寝顔だった。本当にうたた寝しているみたいに。
 だから、私は……

 ――ありがとうございました。楽しかったです。

 それしか言えなかった。他にも色々と話したいことはあったはずなのに、情けないけど、泣き出したら止まらなくなってしまった。



♯午後6時30分

 再び病院へ駆け戻った。義眼のバージョンアップ作業は、ちょっとした手術だから、正直怖かった。



♯午後7時30分

 新しい左眼は鏡越しには、何も変わっていない。いつもと同じ。何も違いが見つからない私の顔が、キョトンとしていた。
 でも、驚くほど繊細に見えた。ぱっつんに切り揃えているはずの前髪に、少しだけ不揃いな所があるのが判るくらいに良く見えたの。
「まだ、乱視の状態だから距離感が狂って見えるはずです。左手との連携も調整し直さないと……」
 兎月先生の言葉に思わず、時計を見遣る。まだ、三時間ちょいある。きっと、間に合う。だから、「お願いします」と、頷いた。



♯2030年3月20日 火曜日 午後11時ちょうど

 真っ暗な南天の空。その真っ暗な海の真ん中で、シリウスの青い炎だけが元気に燃えさかっていた。

 ――ぼくは、ここにいるよ。

 夜空の下に広がる街の灯に向かって、何度も何度も大声で叫んでいるかのように。青く本当にまぶしく燃えていた。
 だから、視界が潤み始めたから、私も真っ暗な空に向かって叫んだ。
「私も、私も、ここにいるよっ!」
 冷たい空を見上げて気づいた。「シリウス」がシリウスだった理由を。 
 真っ暗な夜空にひとりだけで輝いているわけじゃない。星座のように見えないけど、ちゃんと想いで繋がっている。
 病院での義眼の調整と慣熟訓練を大急ぎで片付けて、すぐにブラウニーさんに車を出してもらった。私が星見会の会場に滑り込んだのは、シリウスが見えるギリギリのタイミングだった。 
 ここへ集まった他のリンカーさんから聞いたのだけど…… 全天球で一番に明るい恒星、シリウス。大昔、真っ暗な海の真ん中を進む船は、天測航法でシリウスを探して進んだんだとか。

 消えてしまいそうだった私を導いてくれた、全天球の中で一番に元気な星。みんなに元気を分けてくれた星に話しかけた。
 私も、もっと、元気になれるように、みんなを元気にできるように頑張るね。

◇  ◇


♯2030年4月8日 月曜日 午前10時45分

 花曇り。ブラウニーさんが幼稚園の裏口へ車を着けてくれた。専用リフトで車椅子ごとを降ろしてもらった。
 満開を通り過ぎているけど、まだ、桜の花はちゃんと残っていた。何とか、入園式まではと、桜が頑張ってくれたみたいに思えた。新しい園児さんたちを迎え入れて大役を果たした桜の花びらは、だから、もう散り始めている。風もないのに、薄紅色の雪みたいに。
 願えば、きっと、桜にも気持ちが伝わるんだと思えた。

 小さな園庭は、ご両親と新入児さんたちでいっぱいで、黄色い声が響き合って……もう、泣き出している子もいる。
 これは、私の出番みたいだね。

 ブラウニーさんに手伝ってもらい、講堂へ進む。私の席は音楽の先生のお隣だった。もう顔馴染みだから、何となく世間話もした。

 園長先生、各クラス担任の先生、副担任の先生……と、紹介が続く。わたしの順番は、音楽の先生の後。
 視覚野の左側にぬいぐるみリンク管理画面を呼び出して、Tulipaを起動した。
 そして、私の順番。
 大きな耳にチューリップの形をした飾りを揺らして、演題に登る。
 泣いていた子たちの視線が一斉に集まる。いつもより元気にピンク色の大きな耳を揺らして見せた。
「こんにちは、ご入園、おめでとう。絵本の時間のウサギさんです。これから、一緒にいっぱい楽しい絵本を読みましょうねっ!」

 ~ おしまい ~

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