溶けてしまいそうな

 風が夏祭に色鮮やかな小路町しょうじまち通りをあおった。
 小さなガラス細工の町を彩る真夏の風鈴祭ふうりんまつり――路地を飾りたてる大小の旗が風を包んで、色紙で折られた風車が廻り出して――今、買ったばかりのガラス細工の風鈴が手の中で微かに鳴った。

 もう一度、風が息をした。
 数百の風鈴が一斉に鳴り響いて……

 だけど……その後、私に残ったのは、初めてぎゅっと抱きしめられた記憶と、ひび割れてしまったガラスの風鈴だけだった。

◇   ◇


 三学期が終わりに、お父さんの神奈川支社への転勤が決まった。
 慌ただしく引っ越してしまってから、四ヶ月ちょっと……夏祭りに賑わう小路町通りは、記憶の中の風景と何も変わっていなかった。

 山間にある小さなこの町は、古くは陶器、今はガラス細工が有名だった。
 駅に着いたら、とりあえず今晩泊めてもらう約束のおばあちゃんの家に電話を入れた。
 それから、バスで学校へ向かった。

 駅から学校前まで料金は、三百七十円。これも記憶のまま。
 バス停が酒屋さんの傍にあるのも、そこの番犬が私になぜか無駄吠えするのも変わらない。

◇   ◇


 転校したあの日、校庭の片隅にこっそり種を蒔いていった朝顔が、元気につるを伸ばしていた。
 あの人から貰った赤い花の朝顔は、こうして神奈川の私の家の七階のベランダと、学校の片隅とに咲いているの。それが少し嬉しかった。
 去年の初夏、教育実習にやって来たあの人は、園芸部に所属していた私に、『凄く大きな花が咲く朝顔の種』をくれたの。あの人が、中学生の頃から育てて来た種だって教えてくれた。

 夏が終わって、あの人がいなくなって、園芸部の花壇に残った、茶色に枯れた朝顔から種を集めた。
 その種を二つに分けたの。
 ひとつは、「好きだ」って言ってくれたこの学校の校庭に……もうひとつは、あの人に代わって私が育ててゆくために。


◇   ◇


 まずは、職員室へご挨拶に伺った。先生方も同じ顔ぶれで変わっていなかった。一抱えもある大きなヤカンで麦茶を水出ししてるのも、去年の夏と一緒。
 教頭先生と神奈川の学校のことなどを話した。転校した先の学校は、校庭が狭いのに生徒が大勢だから、それにスポーツが盛んだから、園芸部はなかったの。
「仕方ないから、弓道部にいます」
 そう自己紹介すると、教頭先生は以前と変わらず優しく笑ってくれた。
 氷を浮かせた麦茶は、なぜか家の冷蔵庫にあるのよりも、ずっと美味しかった。

 でもね、帰郷した本当の理由は優しい教頭先生にも話せなかった。話したら、絶対に心配させてしまうから。「もう、忘れなさい」って、きっと、諭されるから。
 だから、「おばあちゃんに呼ばれて、風鈴祭を見に来ました」って、嘘をついた。

 溶けしまいそうなほどに泣いた去年の風鈴祭の日も、教頭先生は「君が悪いわけじゃない」って言ってくれた。

 だから……逢いたいって、本当の気持ちは言えなかった。

 それから、古びた木造校舎へ。
 溶けるように陽炎かげろうが揺れる校庭を横切って、涼しげなプールの脇を抜けて――もう、忘れられてしまった場所へ。


 満開の桜の花の下や、
 風鈴祭の数え切れないくらいの揺らめくガラス細工の鈴の音の中や、
 突然の雷や、真っ暗な夕立や……


 こんなこと、本当に信じているって言ったら――きっと、笑われてしまう。

 日常と少しだけ違う時間――

 もう、会えなくなってしまったあの人に、もしも、また逢えるとしたら、きっと、それはそんな感じの特別な時間の狭間じゃないかって思えて……

 ふと、思い立つごとに、試してしまうの。
 深呼吸をして、勢い良くドアを開けたり、傘を差して夕立の中を探してみたり……

 これって、絶対に可笑しいよね。

 神奈川で新しくできた友達に話したら、恋煩いって言われてしまったけどね。

 でもね、やっぱり、探してしまう。
 祭囃子の人垣を廻ったら、
 真っ白な初雪に隠された深夜の街角に出てみたら、
 満月の夕暮れに、背丈ほどもあるススキの穂の中を歩いて探したら……
 もう、ここにはいない人を訪ね歩くのって、やっぱり可笑しいって思う。

 でもね……
 毎日、毎日、学校と電車と自宅を往復する日常とは、少しだけ違う場所に、きっと、あの人がいる気がしてた。

 だから、一年前、溶けてしまうほど泣いた風鈴祭の日に合わせて、この小さな町に返って来たの。

◇   ◇


 きゅっ、きゅっ、きゅっ……

 一歩づつ歩むたびに、きゅっと鳴く板張りの古びた渡り廊下を通り抜けた先に、もう使われていない木造校舎があるの。

 ゆっくり二回、深呼吸した。
 建付けの悪い引戸勢い良くとはいかないけど開いた。少しだけ日陰の匂いがした。物置代わりのこの旧教室は、半分まで学芸会で使った残りらしいガラクタや、大きな地図帳や図版で埋まっていた。

 当然だけど、誰もいない。
 校庭から野球部の練習試合らしい歓声と、焼き付くような蝉の鳴き声が漏れてくる。それ以外は、床板が鳴く音と、私のため息だけ。


 風鈴祭にあの人を誘ったあの日も、ちょうどこんな感じだった。
 園芸部だから、夏期講習が終わった後も毎日、花壇の花や畑の野菜に水遣りするために学校へ来ていた。
 あの人にお願いして――教育実習に来た鶴里つるさと先生に無理やり頼み込んで、園芸部の顧問になってもらったの。
 夏休みにも真面目に活動している部員は私ひとりだけなのに、鶴里先生は毎日、園芸部の畑に来て手伝ってくれた。

 あの日も、水遣りがあるから、夏休みの学校へ浴衣姿で来てしまった。新しくした浴衣は、先生の好きな朝顔の絵柄にした。
 ひとこと、可愛いって言われてどきどきした。

 そう、あの日は――畑に水遣りをした途端に、お天気雨が降ってきたの。
 雨宿りしたのが、この旧教室だった。

 「あっ……ホントです。縦、横、斜め、どこを足しても、同じ数になります」

 浴衣姿で、大好きな鶴里先生とふたりっきり。凄く幸せだった。
 確か……私が数学が苦手って話しをしたんだと思う。そうしたら、先生は、魔方陣まほうじんって言うのを教えてくれた。
 黒板に縦横が三つのマス目をチョークで書いて、数字を埋めてゆくの。
 そして、暗算……私は、黄色い声をあげた。
「書き方のルールがあるんだ。計算したわけじゃないよ。僕も数学は得意じゃなかったけど、テストの成績とは別なら面白いと思うよ」
 鶴里先生は教育実習生だから、先生になる勉強をしに、田舎のこの学校へ来てた。だから、まだ、先生の卵。真顔で私が訊いたから、きっと照れてしまったのかな?
「あの……教えてください、どうやって作るんですか?」
 先生はちょっと困った顔で笑った。それから、窓に目をやった。
「これは……内緒にしておこう。ちょうど、雨も上がったようだね」
 先に立って扉に向かう先生に、私はすねて見せた。
「えー、先生ずるい」
「ずるくないです。そうですね……結佳ゆかさんが、数学が赤点でなくなったら教えます」
 ドキッとした。
 先生はとっさにだけど、私のこと結佳って名前で呼んでくれた。もちろん教室で普段は他の子と同じで苗字でしか呼ばれていない。
「あっ……」
 と先生が口元を軽く押さえた。
「あはは……」
 と私が応えた。


 そんな何でもないこと。
 だけど、思い出したら悲しくなる。


◇   ◇


 雨上がりの風が、夏祭の小路町通りを走り抜けてゆく。
 色鮮やかに飾られた路地が、風が奔るたびに輝いて、澄んだガラス細工の音色が揺れる。
 色紙で折られた風車が廻り出して――朝顔色の浴衣が風をはらんで……

 小路町通りの歩道に並んだ露店で、色様々なガラスの風鈴を眺めて、お気に入りになりそうな一個を探していたの。園芸部の部室の軒先へ、てるてる坊主と一緒に吊るすつもりだった。
 風鈴祭っていうくらいだから、小路町通りは数百個はありそうな風鈴でいっぱいだった。職人さんが手作りしたらしく、形は似ているけど、少しづつ彩色が違うの。
「結佳さん、これはどうですか?」
 夏祭の今日だけって約束で、先生は私のことを「結佳さん」って呼んでくれた。
 先生が買ってくれたのは、淡い空色の透き通ったガラスの風鈴だった。
「はい、お待たせ、結佳さん」
 先生から風鈴を手渡されて、私ははしゃぎ気味だった。
「青空の色ですね……てるてる坊主さんのお隣にちょうどぴったりです」
 雨上がりの空へ指先で吊るした、ガラス細工の風鈴をかざしてみた。

 ちょうど、風が渡って来た。
 一斉に小路町通りに並んだガラスの風鈴たちが鳴り始めた。
 私の手許の空色の風鈴も、涼しげに鳴り始めて――

 私は、先生に手渡された風鈴の音に夢中で気づかなかった。

 ――香坂こうさか、危ないっ……

 先生が私を呼んだ。
 歩道を乗り越えて、風鈴屋さんを壊して、折り紙の風車を踏み潰して――車が飛び込んで来たの。
 ぎゅっと息ができないほど強く抱かれて……

◇   ◇


 それからの私は、泣いてばっかりだった。
 まるで、溶けてしまうかのように泣き続けた。
 お通夜も、お葬式も……
 先生のご両親はとても優しくって、私を責める言葉は何もなくって、ただ気遣われてばっかりだった。
 夏休みが終わり、秋が来て――園芸部の連絡ノートを開いて――また、泣いてしまった。

 あの風鈴祭の日、先生は私宛に連絡ノートを書いていた。あんなことがあって、ノートを読んだのは二学期が始まってしばらく経ってからだった。


 ――結佳さんが大切にしている校庭の木々や景色が、先生も好きになりました。二学期が始まるとすぐ教育実習も終わってしまいますが、いつかこの学校へ本当の先生となって来たいと思います。
 園芸部は部員が少なくて大変ですが、頑張ってくださいね。


 どうしてよ……
 泣いても答えはなかった。
 だから、先生がくれた朝顔から取れた種を来年もここへ植えようと思った。
 結局、私も転校してしまったから、園芸部の畑には植えられずに、校庭の片隅に種を蒔いたんだけどね。
 何もかも上手くいかない。
 それを変えたくって、『もしかしたら』を探し続けていたの。

◇   ◇


 きゅっ、きゅっ……ずいぶんと長く使っていない黒板にチョークで数字を描く。
 最初に、上段の真ん中へ1を書いて、右の列下段へ2、それから中段左へ3、下段の左角へ4、真ん中へ5、上段右角へ6、一つ下へ7、左上角に8……
 あの夏の日、先生が教えてくれた魔方陣は、大きさが3の奇数陣きすうじんだった。転校した先の学校で図書室を探して、魔方陣の作り方を紹介している本を見つけた。
「先生、私ね、ちゃんと数学も勉強してるよ」
 縦、横、斜め……どこを合計しても答えは十五になった。だから、魔方陣っていうの。
 書きあがった途端に泣けてしまった。
 本当に私は、泣き虫だって思う。
 膝を抱えて黒板の下に座り込んだまま……

◇   ◇


 校庭を奔り抜ける雨脚の音。
 窓ガラスを雨音が叩く。
 そして、お腹に響く打ち上げ花火のような雷鳴――ほんの少し、目を閉じていただけなのに、突然の夕立の音が教室を包んでいた。
 野球部の子達の練習の掛け声は、もう、聞こえない。大粒の雨が打ちつける窓ガラスの向こうは夜のように暗くって、墨色の雲が校庭の真上に渦を巻いていた。

 カン、カン、カン……

 黒板に文字を奔らせるチョークの音に振り向いた。
 切れ掛かった蛍光灯が瞬いていた。
 大きくて古い黒板には、びっしりと数式が書き込まれていた。まるで天才的な物理学者のノートみたいに、激しく方程式が書き殴られているの。
 そして、何よりも、私はその後ろ姿に驚いていた。
「先生……」
 声を掛ける。
「やあ、結佳さん……」
 懐かしい照れ笑いだった。
 私は戸惑って教室を見回した。薄暗くって古びた木造校舎の端っこの教室には、私と先生しかいない。

 ――でも、だって……

 一年前、先生は死んじゃったの。風鈴祭のあの日、突然の交通事故から私を庇って。
 それなのに――
 幽霊? でも、そんな感じはしない。足もあるし、怖いとか変な感じは全然しない。

「どうして?」
 思わず、疑問を言葉にした。
 先生は、複雑怪奇な方程式をチョークで示した。
不確定性原理ふかくていせいげんりって言葉を聞いたことは――あるかな?」
 え……
「結佳さんはずっとこの場所を探していたんだね……日常とは違う時間の隙間のようなこの教室を……」
 微かにうなずいた。
「これは一種の数学的なセンスだと思うよ。運命はひとつではないんだと思う。どんな場合にも、微かな希望があって――結佳さんが必死に願ってくれたから、この『教室』という場所が溶け残っているんだと思うんだ」
 私は泣きそうだった。潤んでゆく視界の中で先生が微笑む。

 あとは、良く覚えていない。
 先生は特別に私に夏期講習をしてくれた。
 『シュレーディンガーの猫』っていう不確定性原理と現実の世界の矛盾が……なんとかっていうお話だったと思う。つまり、物理学には説明しきれないことがあって、もしかしたら本当の『答え』は心の中にあるかも……なんていう不思議な内容の授業だった。
 でも、難しくっても、理解できてなくってもいいもの。
 もう、二度とないって思った先生の授業が受けれたんだから……


◇   ◇


「そろそろ、私の今日の授業は終わり。残念だけど結佳さんには、元通りの場所へ帰って頂かなきゃね」
 先生は、そういうと……黒板へ縦横が四つのマス目を描いた。
「大きさが4の偶数陣ぐうすうじんだよ……これで、帰れるはずです。でも、今日は逢えて嬉しかったです。結佳さんには数学の面白さを伝えたかったんだ。私の初めての生徒さんでもあるしね」
 先生は、不器用な照れ笑いをした。
「わ、わたしも……伝えたいことがあるの」
 何度も心の中ではシュミレーションしてたはずなのに、口に出した途端に言葉がうわずってしまう。
「あの……わたし、先生のこと……好きです」
 再び、抱きすくめられた。
 髪をくしゃくしゃと撫でられる。
 やっと告げることができた想いに、先生の答えの言葉が私の耳たぶを撫でた。
「ありがと……うれしいです」
 泣き声で何とかそういえた。後は、先生にすがって泣きじゃくってしまった。
 どうして、もう、私は弱虫なんだろう。泣いたら、先生を困らせてしまうのに。

 先生に教えられながら、魔方陣の数字を入れ替えた。上下右左のそれぞれの辺の数字を交換して、対角の数字を入れ替える。
 1を指先で消して代わりに16を入れた。16を消して……
「ここへ1を書けば、この世界から元通りの世界へ帰ります。これは数の世界が備えた対称性を使う魔方陣です」

「あの……でも、わたし……」
 まだ半べその私に先生が優しくいう。
「大丈夫、また会えますよ……私も、あなたが立派な生徒さんとして育ってゆく姿が見たいですしね」
 うん。元気を掻き集めてうなずいた。指差されるままに右下のマスに1を書き入れて、先生に振り向いて、一生懸命に微笑んで見せた。
 先生も優しい笑顔を返してくれた。

◇   ◇


 一瞬の後に、まるで夢だったみたいに――昼下がりの旧教室へと私は戻っていた。

 ガラス窓に歩み寄ると、陽炎が揺らめく校庭には守備陣形に散った野球部員の子達が、こってりと千本ノックで絞られていた。練習試合に負けたらしい。

 ――夢?

 黒板を振り向いた。
 そして、思わず、笑ってしまった。

 やっぱり、夢じゃないよっ!

 ――だって、私の書いた魔方陣に大きな赤いチョークの花丸がついていたから。


 ――大丈夫、きっと、また、会えるから。


(おしまい)


(2006/07/31...up)

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