空も一緒に泣くから

 7月23日――
 その日は、とにかく早起きした。始発電車に飛び乗って、新幹線の中で朝食をパンで済ませて、また在来線に乗り継ぎして……最後は、市内巡回コミュニティーバスで、祐久市役所ゆうくしやくしょ西館へ。
 ……なんとか、時間までに辿り着いた。

 梅雨が明けたとたん、夏空はてんてん干しで、日傘を広げても目が回る。
 私は、色白だから、紫外線には凄く弱いの。うっかり焼くと大変な目に会うから、日焼け止め塗ったくって、真っ黒な日傘を持ち歩いている。
「もお、全然、雨が降らないし……」
 愚痴を言いかけて、気づく。
 ……それ、あたしの仕事だった。

 絶対、信じてもらえないと思うけど……あたし、「雨女」です。本物の。

 西館の一階ホールはエアコンが効いて幸せだった。ため息をついたところで、後ろから声がした。
「お疲れ様です。手鞠姫てまりひめさま」
 振り返ると、観光協会の担当で青井さんが眼鏡の向こうでにっこり。
 あたしは、ぷいっと膨れて見せた。
橘智菜たちばな ちなです……こんな場所で、そっちの呼び方はやめて下さい」
 青井さんは、困って見せた顔で、それでもへらへら笑った。大人ってずるい。
「長旅でお疲れのところ、恐縮ですが……衣装合わせをします、こちらへ」
 あたしは、もう一回、膨れて見せた。


 あたしの夏祭り用の衣装は、地元の専門学校のお姉さんたちが作ってくれた。なんでも、七十年ぶりに手鞠姫てまりひめが代替わりするから、今年の雨乞いあまごい夏祭りについては、関係者みなさんの気合の入り具合がいつもと違うらしい。
 まあ、菊子おばあちゃんでは、ポスターにしても絵が持たないからね。

 それにしてもっ! 菊子おばあちゃんの遺言だから仕方ないけど……それでも、すっかり、おもちゃみたく、いじくり回されるのには……疲れた。
 イベント用の巫女さん衣装みたいなのと、浴衣がそれぞれ複数パターン用意されていた。
 仮縫いされていた衣装に袖を通すと、専門学校のお姉さんたちに取り囲まれた。
「ちっちゃいね、本当にあなた、中二なの」
「細いわね……ウエスト、もう少し絞ろうか」
「髪飾り減らした方が良いわね、多過ぎると、お稚児さん行列になっちゃう」
 ……なんか、失礼なことを言われている気がしたけど、みんな悪気はないし、変に気を使われない方が楽だから我慢した。

 昼食は西館七階の食堂で済ませて、そのまま同じテーブルで、夏祭り当日のスケジュールやらの説明会になった。時間が足りないから、本当に大忙しだよ。
 つまりね、夏祭りの実行委員会の人たちに取り囲まれて、次々と資料やらスケジュール表やらを詰め込み勉強させられたの。
「注意事項というかお願いですが……十五時三十分までは雨を降らさないでください。メイン会場の演出に花火を使用しますから」
 それからと、進行係の人が続けた。
「パレードの後、中央公園第1グランドで保存会のみなさんによる火縄銃の演目がありますから、この前後も雨は避けてください」
 こんな感じ。詰め込み学習なのは、あたしの帰りの新幹線の時間が決まっているから。

 最後に、大急ぎで仕上げてもらった衣装を身にまとってのポスター撮り。
「ミス祐久ゆうくのみなさんのポスターがあるんだから、本番まで一ヶ月ないんだし、今更、あたしのバージョンを用意しなくったって……」
 と、すねて見せても、青井さんは手馴れた様子で切り替えした。
「いえいえ、良くお似合いですよ、手鞠姫てまりひめさま」
 ……絶対、この人、あたしのこと、子ども扱いしてると思う。
 それから、手鞠やら扇やらを持たされて、いっぱい写真を取られた。

 終わった時には、新幹線の時間がぎりぎりだった。近くの駅まで車を出してもらって、その後はとにかく走った。
 駆け込み乗車が反則なのはわかっているけど、新幹線に乗り遅れたらお母さんにお仕置きされるもの。

 こんなお話って、不思議でしょ。
 あたしも、少し自信がない。
 この前まで大丈夫だって思えたのは、菊子おばあちゃんがいたから。
 おばあちゃんにお願いされたから、手鞠姫てまりひめの役目を引き継いだけど……本当に、あたし、おばあちゃんみたいに雨を降らせたりできるのかな?


 あたしが泣きたいときは、空も一緒に泣いてくれる。

 そう、思うようになったのは、小学校五年生の夏休みだった。学校の中庭に小さなウサギ小屋があって、そこにそれぞれのクラスで一匹づづウサギを飼っていた。
 あたしのクラス――5年2組では真っ白な雪ウサギを飼っていた。名前は「リン」
 あたしは、一年生からずっとウサギの飼育係をしていた。不思議な色合いをしたウサギたちの目が、あたしの左目に似ている気がしたから。
 ――あたし、左目だけ、ほんの少しだけど青色掛かった色をしているの。それに色白だし……
 幼稚園のころは、先生も「智菜ちなさんは、ウサギさんみたい」って可愛がってくれた。それがうれしくって、ウサギが大好きになったの。

 だけど……リンが死んだの。

 教室に小さな段ボール箱が用意されて、夏休み中だから連絡網で連絡が取れて集まれた子だけで、リンのお別れ会をした。
 保健所の人が来ても、お花を入れた小さな段ボール箱が用意されても、あたしはリンを取られないように抱きかかえて、すすり泣いていた。
智菜ちなさん、そろそろお別れを……」
 先生の優しい声が肩をたたいた。
 それが合図だったみたいに、あたしは声を上げて泣いた。
 リンを見送った後も、ウサギ小屋の前で泣き続けていた。

 ……そうしたら……雨が降り始めてきたの。

 何となくだけど、あたしの気持ちが空まで届いた気がして……もっと、もっと、いっぱい雨が降ったらいいと思った。
 そうしたら最後は、大雨になってしまった。泣き疲れて、雨にぐっしょり濡れて帰ったあたしは、結局、夏風邪をひいて寝込んでしまった。

 あたし、もしかしたら「雨女」かも知れないって思ったのは、その時が初めてだった。

 次にあたしが、思いっきり雨を降らそうと思ったのは、去年の初夏のことだった。
 理由は、恥ずかしいけど、失恋だと思う……たぶん。

 中学校にあがって、すぐ、まだ部活をどこにしようかって迷っていた頃……友達と見学に行った美術部で、あたしは先輩に見初められたの。
「……君を描かせてほしい」
 背が高くて知的な人で、眼鏡越しの視線が不思議だった。だから、うっかり「はい」と即答してしまった。

 それから絵が仕上がるまでの一ヶ月間、放課後は毎日、美術部の部室へ通った。廃部寸前の美術部は、ちゃんと活動しているのは、先輩一人だけだった。
 だから、先輩とふたりきり。
 それに、「描く」といっても……あたしは、椅子に座ってぼんやり雑誌を読んだり宿題を片付けたりするだけ。
 先輩が一生懸命にキャンバスと格闘しているのに、わたしはぼーとしてた。
 それに雑談の相手もしてくれるし、宿題も見てくれた。
「あれ、先輩、おつゆ描きはバーントシェンナーとかじゃないんですね。ビリジャンですか?」
 ひょいとキャンバスを覗いたら……先輩は木炭描きの上に、緑色の絵の具で描き始めていた。テレピン油で茶色系の絵の具を薄く溶いて使うから、おつゆ描きっていうのに……
「特別な絵だから……いつもと違うやり方をするんだ」
 そう、つぶやいた先輩の声は少し低くて、追い詰められているみたいで、ちょっとだけ怖かった。
 後から知ったけど、三年生の先輩は、進学先を決められずに悩んでいたの。それで、先生から県主催の美術展に入選したら専門学校へ行ってもいいって言われていたらしい。
 だけど、その時は気のせいと思った。

 ……だけど……

 絵がもうすぐ描きあがる頃になって、急に先輩が言った。
「ありがとう、もう、明日からは来なくていいよ」
 えっ……?
 ぶっきらぼうな言い方で、絵が完成したという雰囲気じゃなかった。何か急に気持ちが途切れたみたいな言い振りに驚いた。
 キャンバスを見ると、ほとんど絵は出来上がっていた。背景の一部がまだ描けていないくらい。
「――もうすぐ、完成だから、明日もお付き合いしましょうか?」
 先輩が首を振った。パレットや絵の具を片付け始めていた。
「うまく描けなかった。この絵はこれで終わりにするよ」
 そんな……
 寂しそうな言葉が痛かった。
「こんなに上手に描けてるのにもったいないですよ。それにあたし、来週も空いてるし……」
 だけど……先輩の声がそれを遮った。
「もういいって言ってるんだ」
 怒気を抑えきれない声とともに、先輩は手にしていた絵筆を折って、乱暴に床に投げ捨てた。
「何してるんですか、絵が描けなくなっちゃうじゃないですか」
 慌てて床に散らばった絵筆を拾い集めた。まだ絵の具が残ったまま折れた絵筆も仕方なく拾った。
「……卒業したら、美術の専門学校に行きたいって言ってたじゃないですか。それなのに急にどうして……」
 あたしまで、泣きそうな声になっていた。
「この一枚でわかったよ。僕には才能がない。先生の進めるとおり普通科に進学するよ」
 新入生のあたしには、三年生の先輩の気持ちはわかってなかったと思う。
「せっかく、上手に描けているのに……」
 そう、つぶやいたのが引き金だった。
「……上手じゃだめなんだ。上手だけじゃ……美術を目指している奴らの中には、特別な絵が描ける奴がぞろぞろいるんだ」
 先輩の声に泣き声が混じった気がした。うつむいていたし、見てはいけない気がした。
 だけど……
「そう、智菜ちなみたいな生まれつき特別な何かを持っていたら……」
 えっ……
智菜ちなを描きたいと思ったのは、智菜ちなの左目が特別だからだよ」
 驚いて立ち尽くした。
「ヘテロクロミアとか言うんだろ、それ……小説とかのキャラでは大人気の設定だっていうし……誰もが憧れるものなのに非常に稀にしかないもの。初めて智菜ちなを見たときには、本当に魔法か何かに見えた」
 先輩は途中かけの絵を眺めながら、つぶやく。それは斜め左から見た構図のあたしの姿――椅子にかけて本を読んでいる様子を透明な感じに描いていた。ちょうど中央上に淡く青色を載せた左目が位置している。
「特別な題材を描けば、もしかしたら僕にとって特別な絵が描けるかも知れないと思った。自分にも他の奴らみたいな才能があれば目覚めるかも知れないと思った。だけど、だめだった」
「そんな……だって、もっと上手くなるために専門学校に行くんでしょ?」
 だけど、あたしの言葉に答えずに先輩が振り返った。
智菜ちなの左目は、本当に綺麗だ」
 その震えた声を怖いと思った。
「その目で見たら、僕が見ているのとは違う世界が見えるのだろう」
 ……やだ……
「叶うなら、その左目をパレットナイフで抉り出して僕の目と交換したいくらいだ」
 あたしの瞳の中で先輩の顔がにじんでいく。
「君は僕がこんなにも切望しているものを生まれながらに与えられているんだ」
 先輩は力なく笑った。好きだと思った人だから、それが許せなかった。

「……謝ってっ!」

 短い沈黙の時間の後、あたしは声をあげた。
「どうして、あたしのせいにするの。特別ってなに……こんなものが欲しいんだったら、カラーコンタクトでも入れたらいいよ」
 あたし、望んで、こんな色の目をしているわけじゃない。それに、特別な才能があるわけでもない。
 でも、後になって思い返すと、なぜ、あんなことを言ったんだろうって後悔する。
 きっと泣きたかったのは先輩の方だったかもしれない。でも、あたしは散々に冷たいことを言って、泣き出してしまった。

「……ごめん」
 先輩は疲れきった声であたしに詫びてくれた。傷つけたことに気づいて、怖くなって、あたしは逃げ出してしまった。
 もう、その後は卒業後も先輩とは会っていない。進学校に合格したと聞いているけど、今頃どうしているんだろうか?
 本当にひどいことを言ったと思う。もう、会えないけど、ごめんなさい。
 美術室を飛び出した後は、誰かに泣き顔を見られたくなくて、屋上に逃げていた。
 泣いておなかが空いたから、かばんの中に潜ませていたビスケットをかじった。そうしたら、鳩が一羽、寄って来たの。
「あなたもおなか、空いたの? にこにこ動物ビスケットだけど、食べる?」
 そのままだと鳩のくちばしには大き過ぎるから、手の中で握って砕いた。鳩の前に左手を差し出して、開くと……鳩は嬉しそうに手の中のビスケットの欠片をついばみ始めた。
 そうしたら、他の鳩も次々と寄って来たの。あたしはビスケットを砕いて、後から来た鳩たちにも分けた。
 そうしているうちに、ふと気づいた。

 ――砕けたビスケットがまるで今の自分の気持ちに似ているって……

 見上げると、五月なのに夕空はまるで夕立が来そうなほどに暗くなり始めていた。

 ――わたしが泣きたいときは、空も一緒に泣いてくれる。

 もしかしたら、あたしには雨女の才能があるのかもしれない。先輩の言う特別な才能に該当するのかはわからないけど……今日は、いっぱい泣こう、そう思った。

 だから、手の中にビスケットを包んで、泣きたい気持ちを込めるようにぎゅっと握って砕いた。
「あたしの気持ち、届けておいで」
 空に向かって放り投げた。あたしの周りに集まった鳩たちは、一斉に空に舞い上がって行った。

 そして、その夕暮れはどしゃ降りになった。


 それから二ヶ月ほど後、去年の夏休みのことだった。
 ――なんで、あたしだけ、こんな、色の瞳をしているの?
 この目せいで失恋したって、しょげて後遺症みたいに引きずっていたあたしを、お父さんは遠い実家に連れて行くって言い出したの。
 高速道路を二時間ほど走って、県道をしばらく、さらに山間の林道みたいな細い道をがたごと……着いた先は、祐久市ゆうくし北部の大きな茅葺屋根の農家だった。
智菜ちなに合わせたい人がいるんだ」
 そう言われて紹介されたのが、菊子おばあちゃんだったの。
 軒下に玉葱が吊るしてある大きな農家、その一番奥の部屋に案内された。襖を開いた向こうは、本の匂いがする書斎のような部屋だった。その中央に、着物姿のおばあちゃんが待っていた。
「その子かい……手鞠姫てまりひめの御霊の宿り先は……」
 菊子おばあちゃんの最初の言葉は、不思議な単語を含んでいた。
「……はい。娘の智菜ちなです。十三歳になりました……でも、手鞠姫てまりひめうんぬんは非科学的と思いますけどね」
 遠慮がちに応えるお父さんを見て、そう言えば婿養子だったんだと思い出した。それにしても、手鞠姫てまりひめって何?
 あたしが首を傾げていると、おばあちゃんが手招きした。
「……紗枝も、あなたも、忙しいばっかりで結婚以来、顔も見せてくれないんだからね」
 歩み寄るとおばあちゃんは、あたしの顔を見て、嬉しそうに目を細めた。
「嬉しいねぇ、私が手鞠姫てまりひめを継いだ若い頃にそっくりだよ……それに、綺麗な青い瞳をしている」
 声の色合いに気づいておばあちゃんを見ると、そう、あたしと同じ青味を帯びた左目をしていた。

 それから、おばあちゃんは一冊の絵本を取り出して教えてくれたの。
「この祐久ゆうくの里には、手鞠姫てまりひめという妖怪のお姫様の昔話があるんだよ」

 それは、むかしむかし、遠く都から落ち延びて来た手鞠姫てまりひめという妖術を使うお姫様が、祐久ゆうくの里を荒らしていた悪い龍を退治するお話だった。
 手鞠姫てまりひめは、悪事を反省して謝った龍を助ける代わりに、龍の持つ雨を降らせる妖力をも手に入れた。
 龍が立ち去った後、祐久ゆうくの里では手鞠姫てまりひめの子孫たちが代々、雨を降らせているという……

 千切り絵細工の凝った古びた絵本は、そんな内容だった。巻末には、古いお寺に伝わる縁起絵巻物らしい写真も添えられている。
「昭和五十年代に祐久ゆうくが市になったときに記念に作られた本だよ」
 あたしが珍しそうに厚手の絵本を捲っていると、おばあちゃんが教えてくれた。
 それから、ため息をひとつついて、居住まいを正して言うの。
智菜ちなさん、あなたを呼んだのは、その手鞠姫てまりひめのことです」
 隣に座っているお父さんが、微かに笑ったように感じた。
「あなたに、手鞠姫てまりひめの役を継いでもらいたいのです」
 え……っ!
「ちょっと、急にそんなこと、言われても……あたし、困ります」
 驚いた私に、おばあちゃんは雰囲気を緩めて笑った。
「わかっているよ……必要なことは、これから教えるし、なあに……手鞠姫てまりひめっていうのは、隆弘さんの言うとおり『非科学的』なものさ。どっちかといえば、お祭り行事ぐらいにしか出番はないよ」
「で、でも、あたし、高校受験とかもあるし……」
 さすがに即答はできないから、困っていると……
智菜ちな、お母さんには……お父さんから説明しようか」
 ちょっと、驚いた。お父さんってば、いつもは、もっと勉強しろって言うのに……

 あたしが座布団の上で固まっていると、おばあちゃんは昔ながらの黒電話を取り出して、どこかへ電話を始めた。
 なんか、地区の総代衆とか市役所とかに電話した後――あたしに振り向いた。
「決めかねているようだから、試しに雨を降らせて見ようじゃないか……このところ、日照り続きだから、あちこちの村の総代衆からも是非にとお願いされているしね」
 えっ? 障子を開いて確認した。今日も、いい天気で、雨なんて降りそうもない。
「心配しなさんな、あなたには手鞠姫てまりひめの御霊が憑いているんだから……」
 だけど、本当に夕方には雨が降ったの。
 といっても、何か特別なことをした訳じゃなかった。おばあちゃんに言われるまま、実家の伯母さんに手伝われて気持ちのいい紬の着物姿に着替えて、それから……広い庭の隅にあった小さな土盛の山に、水をかけただけ。
 おばあちゃんは隣で見ていて、あたしに作法みたいなことを教えてくれただけ。お父さんは、デジカメで写真を撮っていた。学芸会みたいな気分だった。

 その後、伯母さん夫婦も入って賑やかな夕食になった。今朝、畑から採れたばかりのトマトやキュウリを盛り付けた冷やし中華は、とても美味しかった。少し涼しく感じるくらいに夕立が祐久ゆうくの山と街を濡らしている。
 おばあちゃんには、市内の色々な人や所から電話が掛かって来た。
 嬉しそうに話すおばあちゃんを見ていると、失恋後遺症で塞ぎ込んでいたはずの気持ちがなぜか軽くなった。
智菜ちなさんのおかげだよ……やっと、祐久ゆうくに雨が降った。六月末からまるで降らないから、断水なんて話も出てたけど……みんな助かったってお礼の電話が来たよ」
 そんな……あたし、本当に、何もしてないのに……
 あたしが困った顔をしていると、おばあちゃんが冷やし中華にマヨネーズをたっぷり掛けながら、いたずらぽく笑った。
「まあ、雨乞いあまごいなんて科学的じゃあないけどさ」
 冷やし中華にマヨネーズ、たっぷりって、いったい……そう、思ったら、伯母さんも、伯父さんも、お父さんも……当然のようにかけてた。
 深く考えないほうが、いいとこもあるみたいだった。

 その夜は、蚊帳を張った部屋をひとつ貸してもらい、早めに布団にもぐった。雨だれの音は気持ち良くってすぐ眠くなった。

 どれくらい時間が過ぎたのかわからない。ふと、目覚めると隣の部屋で話し声がした。
 誰か尋ねて来たらしい。
 数人の男の人の声がした。
 蚊帳の中で聞き耳を立てていると、夕方、電話をして来た村総代のおじいさんらしい。
 どうやら、雨が降ったお礼にお酒を持って訪れたらしい。キャベツやほうれん草の他、ナスとか夏野菜の名前がいくつか……明かりと一緒に談笑が襖からこぼれてくるの。
 耳を澄ますとお父さんの声も聞こえた。ちゃっかり晩酌を頂戴しているらしい……
 おばあちゃんは、ため息をついた。
「やっと、私の面目が立ったよ……それにしても、私ひとりでは雨が降らなくなったってことは、もう、手鞠姫てまりひめはあの子をとっくに選んでいるんだ」
 急に笑い声が消えて、襖の向こうで、みんな聞き入っている様子が伝わってきた。
「……昭和のあんな時代の頃から、祐久ゆうくのみんなに良くしてもらって続けて来たけど、私もそろそろお迎えが来るのかも知れないね……」
 淋しそうな懐かしそうな声は、雨音の中に消えた。

 それから一週間、お父さんには先に帰ってもらい、あたしはおばあちゃんの実家にお世話になった。
 その間、ずっと雨降り続きだった。
 おばあちゃんは、折り紙が得意で驚くほどたくさんの折り方を教えてもらった。お手玉もしたし、琴も少しだけ触らせてもらった。

 そして――帰る日の前夜、おばあちゃんにいっぱい遊んでもらったお礼を言いに行くと……
智菜ちなさん、どうか、手鞠姫てまりひめを継いでくださいな」
 おばあちゃんは深く頭を下げて、慌てて膝を突いたあたしの手を握って、そうお願いしたの。
「そんな、こんなの困ります……あたしこそ、あたしで良ければ、手鞠姫てまりひめ、やらせてください」
 おばあちゃんの気持ちがわかったような気がしたから、引き受けてしまったの。一瞬、お母さんの怒った顔が頭を過ぎったけど……勉強と両立くらい、何とかなるよね?


 桜の花びらが舞う中で、涙を意地になって我慢していた。泣かないって、おばあちゃんと約束したから。あたしが泣くと、おばあちゃんのお葬式が雨に降られてしまうから……


 手鞠姫てまりひめの役を引き継ぐと決めてからは、時間が取れるたびに菊子おばあちゃんの所に行った。冬休みも泊りがけで、おばあちゃんから上手な雨の降らせ方を習った。
 それは、まるで……風水占いと、気象の勉強と、祐久ゆうくの里の地理や歴史の勉強をごっちゃ混ぜにしたような……変な勉強だった。
 こたつの上に複雑な陰陽五行を描いた絵図と天気図とを見比べて「全然、わかんないよ」って首を捻っていた時のことだった。
 ふっと、おばあちゃんが不思議と優しい声の色で言うの。
智菜ちなさん、あなたは優しい子だから、すぐに泣いてしまうけど……あなたが空も一緒に泣くことを望むと、あなたに宿っている手鞠姫てまりひめは本当に大雨を降らせてしまう。
 あなたはまだ、自分の気持ちと、空の流れとが区別できないみたいだから――本当に心の底から泣きたい思うと、もしかしたら洪水を起こしてしまうかも知れない……気をつけるんだよ」
 そして、おばあちゃんは素敵な笑顔でこう言ったの。
「約束しておくれ。もしも、私が死んでも葬式では泣かない……いいね」
 うなずいたとたんに、視界が潤んだ。
 すすり上げて我慢した。
 そう、去年の秋ぐらいから、おばあちゃんの具合がだんだんに悪くなっていたの。初めは、夏の疲れって言ってた。秋にはもう年だからと笑っていた。
 ……だけど、お正月ごろには布団に臥せったままの日さえもあった。
 おばあちゃんは、それでもあたしに雨の降らせ方を熱心に教えてくれた。あたしも勉強は自信がないけど、それでも一生懸命だった。言葉にはしなかったけど、もう時間がないことはわかっていたから。


 おばあちゃんが亡くなったのは、四月初めのこと。
 桜の花がしとしと雨に打たれていた。
「……最後に、おばあちゃんが雨を降らせたんだ」
 その雨も、お通夜が終わる頃には止んだ。
 翌朝は爽やかな青空だった。
 だから、あたしはおばあちゃんとの約束を思い出して、とくかく泣き出さないように我慢した。

 遺言には、あたしを手鞠姫てまりひめにすると書かれていた。それに、引継ぎに必要な色々な仕来りや挨拶先のリストも。
 遺品や財産は、伯父さんや親戚筋の人たちが分け合ったけど……あたしには、祐久市ゆうくし郊外にある夕立山とおばあちゃんの集めた気象や昔話に関する蔵書、そして古びた手鞠がひとつ譲られることになったの。
「えっと……お山をまるごと、ひとつですか?」
 地図を見せられて目を丸くした。何でも市の景観保護条例に守られているとかで、開発とかは何もできないけど……頂上に小さな池のある夕立山は、トンボや野鳥の楽園になっているらしいの。

 ――それからというのは、とにかく大変だった。
 おばあちゃんは、あたしに泣いている暇を作らせないつもりらしくて、めちゃくちゃに忙しい日程を遺していた。
 市内四十五もある地区の総代衆とか言うじいさんたち全部に挨拶回りをしたの。
 ……疲れた。

 それが、終わってひと段落、やっと自宅に帰れたと思ったら……わざわざ、あたしの通う中学校まで祐久市ゆうくし観光協会の青井さんは、押しかけて来た。
「今年は、祐久市ゆうくし、市制三十周年の記念すべき年に当たりまして、新生手鞠姫てまりひめにもぜひ、雨乞いあまごい夏祭りの主役を勤めて頂きたく……」
 そう、校長室で来賓として初めて出会った時、メンドクサイほどに爽やかな営業スマイルが眼鏡の向こうで笑っていた。


◇   ◇


 夏祭りの数日前から祐久ゆうくの実家に泊り込んで追い込み勉強した。当日は分刻みのスケジュールになっているし、ステージやパレードで使う台詞を暗記しなきゃいけないし、市議会議長さんとか、商工会議所会頭さんとか、来賓の方々の顔写真も覚えなきゃいけない。

 ――それに、雨も降らせたい。
 祐久市ゆうくしはもともと雨が降りにくい地域だけど、手鞠姫てまりひめがあたしに代替わりして以来、梅雨も少なめ、七月に入ってからはカラカラの有様だった。
 ご近所の皆さんは、あたしのこと、こっそり晴れ女とか噂してるらしいし……
 教えてくれたおばあちゃんのためにも、やればできる子だって、このあたりで見せておきたいと思った。

 8月16日、夏祭り当日は早起きした。ほんの少しだけ時間をもらって、袂にPHSだけを忍ばせて近所お寺にあるおばあちゃんのお墓にあいさつに行った。

 ……いってきます。

 蝉しぐれの中で手を合わせて、たったひとことだけ、ささやいた。
 いつの間にか、着物姿で歩くことに慣れた気がした。



 始まってしまえば、後は勢いだけでイベントはどんどん進んだ。
 本部テントに居並んだ来賓のおじいさんたちにご挨拶したけど……取り囲まれて、わいわい騒がれているうちに慌しく終わった。誰が誰だったのかは、ちょっと、覚えていない。
 駅前公園の特設ステージは、マイクを持ったとたんにあがってしまって……台詞が飛んでしまった。
 パレードに至っては、恥ずかしいので思い出したくない。

 だけど……普段は静かな小さな街なのに、夏祭りの日だけは特別だった。
 活気があるっていうか、ちっちゃな子からご老人のみなさんまで目が輝いているというか……何か、不思議だった。
 おばあちゃんが、この街のことを好きだった理由がわかった気がした。
 同時に、胸の中に今まで感じたことのない気持ちが浮かび上がってきたの。
 何か、まだ、足りない気がした。
 あたしにできること。
 あたしにしかできない(かも知れない)こと。

 もちろん、雨乞いあまごい夏祭りに手鞠姫てまりひめがすることと言ったら、決まっている。

 ――雨を降らせよう。

 だから、本部テントにいた青井さんを捕まえた。あたしは夏祭り会場を離れられないし目立つから……
「あの、にこにこ動物ビスケット、急いで買ってきてください」
「へ?」
「あの……ビスケットがないと、雨が降らないの」
 一瞬の間の後、青井さんが笑った。
「かしこまりまして、手鞠姫てまりひめ様」
 ……また、それを言う。

 ステージはミス祐久ゆうくのお姉さんに任せて、ラムネやリンゴ飴や焼きそばにたこ焼きに金魚すくいに……色鮮やかな露店が並ぶ通りの隅っこを選んだ。
 浴衣姿で路地の中ほどに立って目を閉じる。左目だけを開いて色彩の洪水のように飾られた路地を見遣る。
 大丈夫――ほんの少しだけど、雨の匂いがした気がしたの。この不思議な感覚みたいなものは、おばあちゃんに教えてもらった。だから、大丈夫。

 ビスケットを左手の中に包み、ちょっとだけ涼しくなるくらいに雨を……と気持ちを込める。
 撒いたとたんに、たくさんの鳩たちが舞い降りて来た。
 再び、左手の中にビスケットを包んで、小さくつぶやいて砕いた。
 羽ばたく羽音が次々とあたしの周りに舞い降りて来る。
 始めてから十分ほどで、まるで街中に棲んでいる鳩を全部集めたように――あたしの足元や空にも、周りの露天の屋根や街路樹の枝先や郵便ポストの上まで、数え切れない数の鳩が群れていた。
 ラムネやチョコバナナを手にしたお客さんたちが、不思議な光景に目を輝かせている。それにカメラを向ける人も。
 パレードは恥ずかしくて目眩がしたけど、これならあたしの本当の姿だから……大丈夫だった。
 そう、うまく言葉にできないけど、不思議と大丈夫な感じがした。
 だから、お客さんたちに、にっこりと微笑んで見せた。
「さあ、みんなのために雨を降らせておいで……」
 最後の一握りを空に向かって投げた。
 百羽以上もいた鳩たちが一斉に舞い上がった。観客や周りのみんなからも歓声が上がる。……ちょっとだけ、自分の変な才能を褒めてあげたい気がした。

 三十分後に、ほんの少しだけど、通り雨がざあーと降った。あっという間にあがってしまったけど、夏祭りの街角に涼しい風が吹いた。

 雨に濡れたのに、夏祭りに集まったみんなは、笑顔だった。
 それがすごく嬉しくって――少しだけ泣いてしまった。
 うん、ほんのちょっとだけ……



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