願い星が降る夜に 覆面作家企画2 D-10

 私の声がそのまま白い息になって、十二月の夜空に溶けてゆく。
「わがまま、言って、ごめんなさい」
 トウジさんは車椅子を自動車から降ろして、毛布とクッションを敷いてくれた。
「気にするな」
 大きな腕が、私をすっと助手席から抱き上げる。気遣うようにゆっくりと車椅子に降ろされて、暖かい毛糸のストールで包まれた。
「あの……星……」
 トウジさんの視線が私に向く。とたんに声が出せなくなって、言い澱んでしまう。
 私、どうして、こんなにも怖がりなんだろう。うつむいて微かに唇を噛んでいると、トウジさんの声がした。
「寒くないか?」
 ふるふると首を振って返事をしてしまう。
「辛くないか、大丈夫か?」
 ……はい。
 心の中で答えた。何でもない会話なのに、トウジさんはとても優しいのに、私の中の怖がり虫だけがぎこちない。
 
 静かな夜だった。
 星見ヶ丘は市街の南にある小高い丘陵地で、緑がきれいな展望台公園があるの。だけど冷え込んでるせいね、今夜は誰もいない。
 夜空が薄目を開けてこっちを見ているみたいに、細長い三日月が中天に掛かっているけど、流れ星を探すのに邪魔になりそうなものはない。

 私が、十七歳の誕生日にトウジさんに「おねだり」したものは、流れ星だったの。
 何でも私のお願い事を叶えてくれるトウジさんも、さすがに困った顔をした。
 それでもね、トウジさんは私をこの公園へ連れ出してくれた。先生と看護婦さんを、無理やり拝み倒してくれた。

 私の好みに合わせて、柔らかめに挽いたコーヒーが二人分のマグカップを満たした。
「夏夜は、砂糖、ひとつだった?」
 差し出されたブラウンシュガーのサイコロを、自分のカップにぽとりと落した。
「あの……」
「うん?」
 勇気を振り絞って、言葉を紡ぐ。
「どうして、トウジさんは私のために、いっぱいしてくれるの?」
 私の問いかけに、大きな肩がゆっくり動いた。
「だって、私、トウジさんに何も……」
「怖いからだ、失うことが」
 泣きそうな私の声を遮って、思ってもいなかった言葉が返って来たの。
 だって、トウジさんは、強くて逞しくて……私より二つ年上で高校三年生の時は剣道部の主将をしていた。
 記憶の欠片の中のトウジさんは、クラスの中でも誰かと群れることもなく、ただ孤高の人だった。
「怖いだなんて、そんな……だって、トウジさんは、私なんかと違って、物凄く強い人だもの」
 そう、弱虫の私とは全然違う。私は、トウジさんとは吊り合わない。
「それは違う。俺は、夏夜みたいには強くない」
 えっ? 驚いて言い返す。
「そんな、違うよ。私ってば、泣き虫、弱虫でトウジさんなんかとは不似合いだもの」
 自信のなさと不安を見透かされていると思っていた。トウジさんは強い人だから弱い私に優しいと思っていた。
 でも、微かな夜風は思いもしない言葉を運んで来る。
「夏夜は、あんな酷い事故からもちゃんと回復してくれた。薬に検査に手術、狭い病院に閉じ込められて、それに……」
 トウジさんの戸惑いがちな視線が、毛布とロングスカートに包まれた私の左足に落ちた。それが、私が車椅子生活をしている理由だった。
 それでも悪い話題ばかりではない。今月、最後の手術が済んだ。経過も悪くはない。まだ、厄介ごとが残ってはいるけど。
「左足のリハビリが済めば、退院できるんだろう?」
 やっと温くなったコーヒーを舐めて、小さくうなずく。リハビリってなんだか辛そう。
 トウジさんもマグカップに口を付けた。そのまま一気に飲み干してしまう。
「本当に、あの時、心の底から恐ろしいと思ったんだ……」
 言葉を探している数秒の間、遠くの鉄道の音が聞こえた。
「倒れていた夏夜を抱き上げた時、正直に言って、もう、ダメかと思った。意識が戻らなかった時も、記憶が混乱して暴れられた時も……」
 一年前の夏、私は交通事故に遭ったの。
 市民病院に運ばれて、集中治療室で何とか息を吹き返したらしいけど……三ヶ月近くも意識が戻らなくって生死を彷徨っていたらしい。
「そうね、私、トウジさんに噛み付いたんだったっけ」
 今だから笑い話。
 ちょうど去年のクリスマス頃よ。意識が戻っても、自分が「栗里夏夜」って名前だってことすら忘れていた。目にする何もかもを怖がっていた。薬も検査もトウジさんのことまでも。
 今はもう、ほとんどのことを思い出しているから大丈夫だけどね。
「でも……もしも、トウジさんがいなかったら、今頃、私はここにいなかったと思う」
 私の感謝の気持ちが、言葉にしたとたんに白い息に変わる。
 トウジさんの手が伸びて、私の髪を撫でる。時間がなくってシャンプーしそびれた髪がちょっとだけ心配だった。
 私の記憶は、そう、ほとんど戻っている。身体の方もたぶん大丈夫になると思う。
 でも、私、トウジさんに言えない秘密に怯えていた。
 私、事故以前のトウジさんと私のこと、どうしても思い出せない。どんな風に知り合ったのかも、なぜ、事故に遭ったあの日、あの場所で待ち合わせていたのかも。

 ――トウジさんは、私にとって唯一の救いだった。

 一度は集中治療室送りになった身体は、以前のように元気とは行かなかった。時々、発熱して病室を出られない日もあるの。
 私が怖がりだからと思うけど、先生も看護婦さんも、必要以上のことは教えてくれない。特に事故の様子や、どれくらい酷い怪我を負っていたのか、そういう話題はタブーになっていた。
 だから、発熱したり、痛みが出た時、不安で仕方なくって泣きながら、ベットの中でうずくまっていた。お父さんもお母さんも、優しいんだけど、私が辛そうな顔を見せると、不安そうな顔ばかりするの。

 トウジさんは、毎日のようにお見舞いに来てくれた。受験の真っ最中でさえも時間を見つけて病院に通ってくれた。
 花束を届けてくれた。
 休学中の私へ、授業のノートを届けてくれた。後になって、お見舞いに来てくれた友達から聞いたんだけど……トウジさんは一年生の後輩を訪ね回ってノートのコピーを集めたらしいの。
 学校では少しウワサになっていたらしい。
 トウジさんは孤高の人だった。自分のこと、自分の役割はきっちりこなすけど、他人に頼るなんて絶対しなかった。
 それに、志望校を関東の大学から地元の大学に変えてしまった。

 ごめんなさい――私がそう言うたびに、いつも決まって「気にするな」と少しぶっきらぼうな答えが返ってくる。
 だから、私は心の中だけで、もう一度、ごめんなさいを繰り返していた。

 季節が変わって暖かな春先になると、大学一年生になったトウジさんは車の免許を取っていた。
 それからは、毎日のように車で迎えに来てくれた。具合の良い日に限られるけど、看護婦さんは一時外出を許可してくれた。事故から半年が過ぎて、私の身体の方もかなり癒えていたの。
 桜堤へお花見に行き、花火大会の賑わいを車窓越しに眺めた。少し遠出をして紅葉狩りにも連れて行ってくれた。

 でもね、それも、暖かかった秋頃までだった。
 私の左足には、まだ手術しなければいけない場所が残っていた。
「歩けるようになる可能性があるなら、努力すべきだ」
 そんなトウジさんの言葉に背中を押されて、二回も手術を受けた。結果は良好だったと聞いてるけど、まだ、リハビリを頑張らなきゃいけないってのは、ちょっとうんざり。

 マグカップを差し出す。
 丸みを帯びたブラウンシュガーの角砂糖が、空のカップの中で、ころんと音を立てる。
 トウジさんは、水筒からお代わりのコーヒーを注いでくれた。
「流れ星、なかなか飛ねぇな」
 コーヒーを吹き冷ましながら、うなずく。
「ごめんなさい。変なことおねだりして」
 星見ヶ丘公園は市街地より少しだけ高い場所だから、見上げる星の数よりも、地上の街路灯や街並みの明かりの方が多く見える。
「国道は相変わらず込んでるな」
 遠くを見遣ったトウジさんがつぶやく。免許を取って以来、車の関係の話題が増えた気がする。
 他には、大学のこと、アルバイトのこと……私が知りたがるからだけど、トウジさんは色々なことを病室の私に話してくれる。
 だけど、もう、高校生活の話は出ない。
 トウジさんが変わっていく。
 お見舞いに来た友達も、二年生になった。クラス替えの話まではついて行けたけど、二年生になって以降の学校行事の話題は、もうイメージが掴めない。
 親しかった友達の輪にも変化があったらしくって、親友たちの談笑の中にも、私の知らない子の名前が出て来るの。

 私の時間だけが、十五歳の夏から止まっていた。それが寂しかった。

 コーヒーのお代わり、三杯目。
「大丈夫か、今夜眠れなくなっても知らないぞ」
「トウジさんだって、五杯目だよ」
 コーヒーの匂いの中で笑い合う。

 あの事故の日の出来事は、途切れ途切れにしか記憶が残っていない。
 トウジさんと駅前広場で午後四時って待ち合わせの約束をしていたはず。
 思い出せる最初のシーンで、私は……渋滞にはまり込んだバスの中で、時間を気にしてそわそわしていた。
 メールをしようにも山陰にバスがいるせいか、圏外になったまま。田舎だから、旧市街の所々に携帯が通じない場所があるの。
 かなり遅れてバスが着くと、慌てて飛び降りた。街路樹に群がるセミの鳴き声が、一斉に降り注いだ。なぜかセミの声だけ今も鮮やかに思い出せる。
 駅前広場を飾る花時計は、もう、四時を回っていた。
 駅前大通りを横切る歩行者信号が点滅を始めていた。大きめの麦藁帽子を片手で気にしながら、横断歩道に駆け出した。
 そして……
 ブレーキが軋む音が間近で轟いた。

 ……その後のことは覚えていない。

 次にちゃんと記憶が繋がっているのは、三ヶ月以上も後の出来事。あれは、もう、一年も前のこと。十六歳の誕生日のお祝いを持って病室を訪ねてくれたトウジさんに、私はただ怖くって……差し出された優しい人の指に、噛み付いてしまった。
 どんなにか、悲しませたんだろうって、後になって気づいて、泣いて謝ったけど……トウジさんの答えはいつも同じ。
「気にするな、夏夜が悪いわけじゃない」
 トウジさんのぶっきらぼうな優しさは、私にって「救い」だった。だって、お父さんもお母さんも病院の看護婦さんも、優しいんだけど不安そうな顔が見え隠れしているの。
 素直に、「痛い」とか「いやだ」とか「怖い」とか言える相手はトウジさんだけだった。
 特に、お母さんの前では頑張って強がって見せないと、お母さんが泣いてしまう。

 昨日、トウジさんが病室に来た時に、去年の誕生日のことを思い出したの。
「小さな女の子だと思っていたが、本気出して噛むと、結構、痛いんだな」
 トウジさんは冗談交じりに言った。もちろん、噛まれた右手の指はすっかり治って傷ひとつない。
 そして――今年は何をプレゼントして欲しい? そう、笑顔が降って来る。
 去年の反省もあって、「いらない」と答えると……
「どうしても何かプレゼントしたい。そうだな、俺の指を噛んだことを忘れるくらい、何か夏夜の記憶に残りそうなものが最高なんだが……」
 だからね、車椅子に腰掛けてまま、少しだけ考えて、答えたの。
 流れ星って……

 ぼんやりしていたせいで、呼ばれていることに気づくのが遅れた。振り向くと、トウジさんは質問を繰り返した。
「なあ、どうして流れ星が欲しかったんだ?」
 下を向いた。もう、コーヒーカップは空っぽだった。
「……お願い事があったの。あのね、私、トウジさんやお母さんが一生懸命に教えてくれたおかげで、色々なことを、記憶を思い出せたけど……大事なこと、まだ、忘れたままなの」
 怖がりな私が意外なほど淡々と言葉を紡ぐ。
「怒らないで聞いてね……私、事故より以前のトウジさんと私の記憶がまだないの」
 半泣きになった私の頬をトウジさんの大きな掌が撫でてくれる。
「……怖くってずっと言えなかった。トウジさんは信じて私を待ってくれるけど、こんなに馬鹿だって知られたら、きっと見捨てられるかも知れないって思ったら、怖くなって……去年は噛んじゃったし、今年は馬鹿だし、私ってば嫌な子だよね」
 泣きそうな私の髪を優しい大きな手が撫でる。
「大丈夫だ。俺は、尊敬できない人を好きになった覚えはない。夏夜は凄く頑張っているじゃないか」
 後は言葉にならなかった。大好きな人に認められるってことが、こんなに嬉しいなんて知らなかった。

 ひとしきり泣いたら、意外とすっきりしてしまった。
「もしも、ずっとも思い出せなかったら、どうしよう?」
 子供のような私の問いかけに、トウジさんは面白そうに微笑した。
「その頃には、新しい記憶が積み上がっているはずだ。問題ない」
 ため息。
 トウジさんの優しい笑顔を見たら、心配事が溶けてしまった。そうだよね。
 これから、楽しいこと、うれしいことが増えるように頑張ればいいもの。
「そのためには、来週からのリハビリ、気合入れろよ」

 その時だった。
「あっ、あそこ!」
 トウジさんが指差す。
 とっさに、心の中に浮かんだ言葉を心の中だけで願い事に変えた。
 流れ星は、意外に長く尾を引いて鉢伏山まで飛んだ。
「どうだった?」
 笑顔で人差し指を立てて見せた。
「今のタイミングで、本当に、三回も願い事を繰り返せたのか? 凄いな」
 うん。大丈夫。新しい願い事は簡単だから。
「結局、夏夜は何を願ったんだ」
 くすくすと笑ってみせる。
「内緒、お願い事を他人に教えたら、叶わなくなるもの」
「そうか、じゃあ、叶ったら教えてくれ」
 トウジさんは、マグカップや水筒を片付け始めた。
「消灯時間ぎりぎりだな。帰るぞ」
 私の時間が動き出した気がした。

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