天空海戦物語 蒼

#星歴 684年11月 4日
 ティンティウム市赤猫東通28番地

 銀葉月。秋も深まった街角に、暖かい橙色のガス燈が灯り始めた。
 少女は、赤猫通駅で市内循環線のトラムを降りた。急いだ様子で馬車通を横切り、石畳の街路を走った。生糸問屋が並ぶ通り、隅から数えて四軒目の隣に、地元の子供しか知らない抜け道への入り口がある。
 曲がりくねった路地裏の石階段を五十セタリーブほど駆け上がった。
 そして、お菓子屋さんが集まる鈴猫東通に抜ける。まだ銀葉月になったばかりなのに、真紅のリボンや雪の結晶のきらきらした飾りでいっぱいだった。
 もう冬至祭向けの飾りを始めている、気の早いショウウインドウをわき目に、夕暮れ時の銀杏街並を走った。
 市立芸術学院音楽科の青い制服に、ストールを羽織った姿。小柄な黒髪の少女は、息をついて立ち止まると――鈴猫交差点の角に立つ銀時計を見上げた。
 それから、白い息を吐く。胸元を押さえてから、また、金色に染まる銀杏並木を走り出した。
 少女が向かう先、鈴猫焼菓子店の閉店時間は、もうすぐ、午後七時だった。

 からん、からん……
 しっぽに鈴をリボン結びした猫の絵で飾られた扉を開けた。もう、お客さんは誰もいない。お目当てのクッキーの棚もすっかり寂しくなっていた。
「おや、まあ……どうなさいました?」
 鈴猫焼菓子店のパティシエさんは、いつものとおりに穏やかに声を掛けてくれた。
「あの、お友達と仲直りしたいんです。だから……クッキー、いっぱい、ください」
 息を切らして飛び込んで来た私が、そんなことを口走ったから――パティシエさんは、最初ちょっと驚いた顔をした。でも、すぐに泣きそうな私の顔に気づいて、事情を察してくれた。
「今日焼いたクッキーは、おかげ様で売り切れました。生地も残っていません。でも、卵や砂糖、小麦粉はたくさんありますよ」
 そして、パティシエさんは優しく微笑んだ。
「お嬢さんは、いつもココアクッキーをお買い上げくださる芸術学院の生徒さんでしたね。お手伝い頂けるなら、ご希望の数のクッキーを焼きましょう」
 放課後にお友達と良く買いに来るから、これでも私は、この焼菓子店の顔なじみ客のつもりだった。覚えて貰えたことが嬉しくて、微かに頬を赤らめた。
 息があがっていた胸元を押さえた。
「音楽科二年生、沙夜・イス・メートレイアです。お友達と喧嘩しちゃったんです。ずっと本当のことが言えなかった私が悪くって……だから、お願いします」
 ぺこりと頭を下げた。
 優しい言葉を掛けられたから、内緒にしていたはずのフルネームを思い切って口にした。
 ちょっと驚いた表情の後、パティシエさんは、もっと、優しい微笑みになった。
 とある事件の関係者として有名な天空貴族の子女が、このティンティウム市内に隠れ住んでいるって噂があるのだけど……実は、毎週のようにクッキーを買いに来ていた、私のことだったと、今、気づいたみたい。
 この名前は地上の街での居場所を守るために、ずっと、隠していた。
 パティシエさんが隠した一瞬の表情は、畏怖に近い色。微かな後悔と逡巡を、微かに黒髪を揺らして打ち消した。

 閉店後の鈴猫焼菓子店のキッチンへ、パティシエさんは私を招き入れてくれた。レシピ帳を少しだけ見せてもらった。
 真銀製のボールに卵をどんどん割り入れた。片手で卵割りをしたら、上手いって褒めてもらえた。私の家、メートレイア伯爵家は、天空貴族の中でも武家として知られている。だけど、ちゃんと卵くらいは扱えるよ。
 小麦粉と砂糖をふるい、牛乳でバターを溶かして……

 たくさん作った型抜きクッキーをオーブンで焼く合い間に、お茶も出して頂いた。
「頑張りましたね」
 ううんと首を振る。
「ご無理を言って、すみません」
 いくら放課後の常連客だからって、私のお小遣いで買える枚数は知れている。閉店間際に押しかけて特別にクッキーを焼いて頂くなんて。
 すると、パティシエさんは白い帽子を脱いで深く頭を下げた。
「沙夜法印皇女様とお見受け致します。わたくしの店の流儀に付き合せてしまい、大変な失礼をお詫びします」
 深呼吸した。
 これが――ずっと、お友達にも秘密にしていたこと。大人を相手に、メートレイア伯爵家の名前を口にしたら、当然、気づかれると思った。
「恥かしいから、そういうの、なしにしてください。私、今は、ただの音楽科の生徒に過ぎないです」
 それに、あの事件、今頃に思い出しても怖いもの。
 だから、黒髪を揺らした。
「このクッキーも、この場所も私のお気に入りです。今日は、勇気が欲しくってここに来ました。お友達に本当のことを言える勇気、もう、一回だけ戦える勇気……それが欲しくて」
 ぽつぽつと紡ぐ言葉をパティシエさんは、静かに聴いてくれた。
「わたくしのクッキーが、皇女様の勇気の源ですか? 光栄ですね」
 もう、一回、黒髪を揺らして首を振った。
「ううん。鈴猫のクッキーは女の子、みんなの元気の源と思います。だって、美味しいもの」
 それから、冬至祭色の飾りが揺れる可愛らしい店内を眺めて、心の中だけで、つぶやいた。
 ――だから、たとえどんな妖魔が襲って来たとしても、この街を守り抜きます、と。

 焼きたての甘い匂いを詰めた大きな紙袋を抱いて、扉の前で再び深くお辞儀した。お店を出ると、晩秋の夕闇にガス燈の橙色が零れていた。

 それから、今度は抜け道を通らずガス燈で華やぐ大通りを引き返した。
 赤猫通まで歩いた所で、声を掛けられた。
「沙夜様っ!」
 私と背格好が同じくらいの少女が、息を弾ませて駆け寄って来た。栗色の髪がガス燈に照らされて、艶やかに揺れていた。
「鈴猫のクッキーをお買い求めでしたら、私にお言い付けて下されば……」
 鈴猫焼菓子店の大きな紙袋を、私が抱えていることに気づくと、心配の声色が揺れた。
「ユカ、ごめんなさい。でも、これは私の決心のためだから」
 大きな紙袋をぎゅっと抱きしめた。
 ユカも制服姿だった。きっと、私のこと、ずっと、探していたんだ。気づいたら、ユカのことが愛おしくて切なくなった。
 この栗色の髪の少女、ユカ・ティア・テューは、二年前、帝都にいた時に私付きになった侍女官だった。私が、いくつかの事情からティンティウム市立芸術学院へ、身分を隠して留学した時にも、付き添ってくれた。
 ユカは、ずっと側にいてくれた。だから、声色だけで私の気持ちを解ってくれる。

 赤猫通駅まで戻ったとき、夕闇の中でもうひとつ声が沸いた。
「沙夜っ! もう、探したわ」
 敷石舗装の馬車道の傍らにある駅にも、ガス燈が灯されていた。私とユカがいる橙色の光の輪へ、赤い髪の少女が駆け寄って来た。
「アルカ、ごめんなさい……」
 バツが悪すぎて、紙袋を抱いたまま小声でつぶやいた。
「当然でしょっ! あんな顔で泣きながら飛び出されたら、心配しない方がどうかしてる」
 もうひとりの私の親友、赤い髪の少女、アルカ・ミルグランセンは、地元育ちだった。ティンティウム市内星掛通で織物屋を営む老舗の長女で、芸術学院では縫製技術を学んでいた。自宅のある星掛通から、芸術学院まではトラムを乗り継ぐ待ち時間を入れても、一時間と掛からない。でも、アルカはあえて学生寮に入っていた。
 私、ユカ、アルカの三人で、学生寮ではひとつの部屋に棲んでいたの。
「何よ、それ?」
 アルカは、夜風の中に甘く香ばしい焼きたてクッキーの匂いが混じっていることに気づいて、私が大事そうに抱く大きな紙袋を見遣った。星掛通と鈴猫東通は三百セタリーブほどしか離れていない。鈴猫焼菓子店を紹介してくれたのもアルカだった。
「ずっと、名前のこと隠していてごめんなさい。だから……皆で食べながら私のこと、話そうと思って……」
 アルカは、ため息をついて見せた。
「一年以上も一緒の部屋に住んでいるのよ。あたしが気づいていないと思っていたの?」
 クッキーの匂いの中で小さく首を竦めた。
「……ごめんなさい」
「沙夜」
 ほんの少しだけ混じった怒りを隠した声が呼んだ。
 トラムが通り過ぎる車輪の音、車窓から零れる光の中で、パンと頬を打つ音が微かにした。

 ガス燈が照らすアルカの横顔は、泣きそうだった。ユカは、静かに寄り添ってくれる。
 トラムが通り過ぎると、急に静かになった。
 アルカが黙ってしまう。私も打たれた頬の暖かさでアルカの気持ちが解ったから、もう言葉はいらなかった。
 ――ずっと三人で一緒、親友だよって、約束していた。守れない約束だと知っていた。アルカも気づいていたんだ。きっと、約束じゃなくって願い事だったんだと、今更に気づいた。
 織物屋さんの娘に過ぎないアルカにとって、法印皇女である私は本当に雲の上の存在だった。鈴掛通にある老舗の跡継ぎ娘は、この地上の街ではたいそうな身分かも知れない。でも、私は天空帝国を統べる法王様の孫娘だから――この街で過ごすつかの間の休暇が終われば、きっと、大勢の騎士たちを従えて妖魔を駆るために天空の海を巡り続けることになるはず。
 学校を卒業してしまえば、アルカとはもう会えない。
 こんなに私のことを想ってくれるアルカと別れる時が来ることなんて考えたくなかった。だから、ずっと一緒にいたくて嘘をついて、メートレイア伯爵家の名前を隠し続けていた。
 だから、ごめんなさいと言葉にしてしまった。私はアルカに叱られたかったの。甘えだって解っているけど、それでも、望まずにはいられなかった。だって、こんなにも一生懸命に私を叱ってくれる人はいない。

 ユカは、きっと、アルカに心の中で感謝していると思う。私が望んでいても、ユカには出来ないことを、アルカは代わりにしてくれるから。

 次のトラムに三人で乗った。
 かたん、かたんと、敷石舗装の街並みを小さなトラムが走る。夕暮れ時の車内は、家路を辿る人々の談笑する声が揺れている。ほんのりおしりが温かい座席に三人で並んで座っていた。
 もう、夕食時間を過ぎていて、三人ともお腹が空いていた。私、いっぱいクッキーを抱いていたけど、これは学生寮に帰り着くまで袋を開けないって決めていた。

 アルカに打たれた頬は不思議と痛くない。老舗織物屋さんの長女として厳しく躾けられているから、アルカは叱り方も良く心得ているみたいだった。
 同じ学年なのに、私にとってアルカの傍は、まるで姉の隣に座っているかのように安心できる場所だった。
 アルカは、私が秘密にしていたことを怒ったわけじゃなかった。「ごめんなさい」という言葉を私が口にしたから、叱ってくれたの。
 アルカと私は、ごめんなさいって言葉を言わないって約束していたから。叩いてもらわないと、私の「ごめんなさい」が止まらないって、アルカは知っているから……
 上手に叱ってくれるアルカが、迎えに来てくれて嬉しかった。だから、アルカの横顔に、心の中だけで「ありがとう」とつぶやいた。

 かたん、かたん……
 車窓の向こうを街の灯が流れていた。ティンティウム市は、世界最大の商都だから、街並みも華やかだった。自治権を持っているし、地上にあるから、めったに天空騎士を見かけることはない。私は、法印皇女という自身の役目を忘れて、何気なく過ごせる暖かい街をすっかり気に入っていた。

 もちろん、帝都にも冬至祭はあるよ。
 だけど……北部高原にある帝都では、冬のお祭りは、本当に雪が降る季節になるから、とにかく寒かった。
 帝都は、貴族や騎士、多くの官吏たちが棲まう政治の中心で、同時に天空艦隊の本拠地だから、面倒なやっかいごとも色々あったの。
 私は、二年前に負った大怪我の加療を理由に、面倒な帝都から逃げてきたの。
 ため息をひとつ、甘いお菓子の匂いの中で零した。

 ティンティウム市のトラムは、複雑な市街に合わせて、時折に狭い路地を通る。小さな曲がり角を、きつめの半径でちょっと無理をして回るから、がたんがたんと車内が揺れる。
 ふと、アルカの赤い髪が、私の頬に触れた。

 法印皇女というのは、天空帝国の役職で、法王様から直接に任命状を頂く、数少ない親任官のひとつ。あんまり自覚がないけど、法印船団という名前の小さめな天空艦隊を指揮できる権限まである。
 私の記憶が確かなら、天空艦隊の中では、少将よりも格上のはず。絶対指揮権がないだけで、大勢の騎士たちを指揮する責任を負っている点は、何も変わらない。百戦錬磨の偉丈夫な方々と同格っていうのは、正直に言って、怖かった。
 それでも、二年前まで何とか逃げたい気持ちを我慢していたのは――私がこの身に宿している法印魔法が、妖魔の魔法機械群と戦わずに済む唯一の方法だから。

 この世界は、およそ六百年前に漆黒世界から妖魔の襲来を受けた。今は、もう、存在しない時空転移門を壊されて、一万とも十万ともいわれる妖魔の大群に侵入された。
 世界守護天空艦隊の全てを失うほどの劣勢を何とか出来たのは、女神様が完成させた法印魔法のおかげと伝えられている。
 だけど、女神様はもういらっしゃらない。
 なのに、六百年以上も過ぎて、肝心の法印魔法が解け始めている。妖魔の魔法機械は、今もかなりの数が、この世界のどこかに埋もれているはず。
 だから、危険な魔法機械がどこかで発掘されたなら、帝国版図の端までも飛んで行って法印魔法をかけ直すのが、私たち法印皇女の役目だった。
 だけどね、危険な魔法機械が目覚める前に都合良く発掘されるとは限らない。法印が間に合わなければ、戦ってでも妖魔を食い止めることになる。法印皇女の指揮下に小さめでも艦隊が置かれているのは、そういう意味なの。

 法印皇女には、遺伝資質が必須で、それは法王家にゆかりの血筋に限られる。私のお母さんは、現法王様の次女だった。メートレイア伯爵家に降嫁して、私を産んでくれたの。
 だから、私は、法王様の孫娘で、理屈の上のお話に過ぎない気もするけど艦隊指揮権まで持っていた。
 そんな特別な子が、貴族の子女が集まる帝都の学校へ、普通の顔をして通うのはちょっと無理だった。私が気にしなくっても、他の生徒達は私を特別視していた。だから、友達も出来なかった。いつも、お昼はひとり、校庭の隅っこでお弁当を食べていた。

 地上の街に来てからは、そんな煩わしいことは、全然なくて幸せだった。銀杏金枝寮という名前の女子寮に入ったら、みんなに弄り回されて、ひとりにされる時間はなかった。毎日、本当に楽しかったのに……

 計算違いの始まりは、二週間前に第七艦隊群宛てに、うっかり手紙を出したことだった。
 最近、妖魔が遺した魔法機械が暴れているって噂をいくつも聞いたの。ティンティウム市は商都だから、各地から色々な品物が集まる場所だった。当然、世界中の色々な噂話も自然と聞こえてくる。
 先月話題だったのは、「イル砂漠で獣魔が出た」とか「第七艦隊群が何隻沈められた」とか……
 短い間にちょびっとだけど、天空艦隊の指揮に関わった経験があるから、噂話だけでも……解ってしまう。どなたの船に被害が出たのかを。
 第七艦隊群には、お世話になった方々が何人もいらっしゃるから、心配になって手紙を書いてしまった。

 ――それが、失敗だった。
 天空艦隊や帝都にある各省庁関係から時々舞い込む私宛の手紙は、全部、寮母のウェルティーヌさんがこっそり仕分けてしてくれていた。
 男の子達からの恋文をほどよくチェックするために、寮母さんが手紙を確認するルールが寮則にあった。便利だから、寮母さんに事情を知らせて、この寮則に便乗させてもらったの。
 だから、第七艦隊群から返信が来たら、いつもどおりに寮母さんがこっそり手渡してくれると思っていた。

 ところが……
 想定外の出来事が起きた。
 第七艦隊群は辺境地方でも激戦区を管轄していた。常に妖魔が遺した魔法機械船や漆黒属性の魔法機械騎士と戦っていた。足りない戦力を技量で何とか遣り繰っているのが常態で、いつも補給と新造船を欲していた。

 そんな実戦集団だから、私のこと、もの凄く高く評価していたらしい。本音は、喉から手が出るほどに、私を欲しかったとか。
 だけど、加療中の私に気遣って、この二年近くは、あえて全く接触を断っていた。武家同士のお付き合いらしいと言えば、そうかも知れない。
 だけど、私から戦況を尋ねる内容の手紙が届いたものだから……さあ、とばかりに通信筒いっぱいに資料を詰めて使者に持たせた。

 後で話すけど……私は、大怪我を負った二年前に、誰にも出来ないようなもの凄い戦い方をしてしまった。お母様や仲間の天空騎士達を守るために、人の器の限界を超える莫大な量の魔法を使って、妖魔の魔法機械船の大群を退けたことがある。
 鈴猫焼菓子店のパティシエさんが私の名前を聞いて、一瞬だけ、畏怖の感情を隠し切れなかった理由も、きっと、それ。

 ……私、普通じゃないもの。

 だけど、辺境区で妖魔の侵攻を防いでいる第七艦隊群にとっては、私はすごく魅力的な存在に見えるらしい。私には、あんまり自覚がないんだけどね。
 だから、私が情報を求めたとたん、勇んで馳せ参じてしまったの。

 まさか、本当にここへ来るとは、思わなかった。だってね、ここはティンティウム市立芸術学院の中。ティンティウム市は地上にある自由市だから、さらに芸術学院も学校として独自の自治権を持っている。
 つまり、地上にある上に二重に自治権に守られているのだから、天空艦隊関係者と不用意に遭遇する心配はないと考えていた。
 さらに銀杏金枝寮が女子寮であることを考慮に入れるなら、三重の防壁のはず。寮母のウェルティーヌさんが四六時中、入り口を守っている以上は、部外者は絶対に誰も入れない。
 番号付き艦隊群の絶対指揮権だって、ここには及ばないはず。
 部屋の扉に鍵を掛けて、お布団に潜れば、もう、誰も追いかけてこないと信じていた。

 ところが……第七艦隊群からやって来た使者は、威風堂々とした姿で、教室にいた私の前に現れた。
 大き過ぎるくらいに立派な剣を下げて、真銀と真鍮を重ね合わせた精巧な甲冑に包まれた出で立ちは、音楽科の生徒たちを驚かせるのに充分過ぎた。
 その天空騎士に、私が斬られるんじゃないかって心配した子もいたと思う。怖い思いをさせてしまったよね、ごめんなさい。
 その天空騎士は、大きな紙製の筒を携えて、私の前に歩み寄った。
 もちろん、天空騎士が通信使であることは、甲冑の肩に巻かれた紅い布で解る。それに、この長身の天空騎士、どこかで会ったことのある顔だと思った。

 仕方なく、私は椅子に掛けて騎士が歩み寄るのを待った。本当は、笑ってごまかすか、逃げちゃおうかとも思った。
「沙夜法印皇女様へ至急のお知らせをご持参致しました」
 かつんと靴を打ち鳴らした天空騎士が、通信筒を両手に捧げ持ち、私の前に跪いた。天井に届くかと思うほどの偉丈夫が、小さな私の前で、凍り付いたように恭しく平伏しているの。無理をして私よりも小さくなろうとしているかのように。
 まさかの展開に、遠巻きに私を見守るお友達の黄色い驚きの声が沸く。
「ご苦労様です」
 もうこうなると、私は法印皇女として振舞うしかない。傍らに控えているユカに練習用の小さめなチェロと弓を手渡した。さらに、ユカは使者様から通信筒を受け取り、私に取り次いだ。周囲に集まって来た生徒たちは、息を詰めて私たちを見守っている。
 心の中で私は、「やっちゃった」と後悔した。せっかく、いままで無名の貧乏貴族に成りすまして、特に注目されることもなく無事に過ごして来たのに……
 でも、天空貴族の武家の娘として、法印皇女として、遠くまで馳せ参じてくれたこの騎士を邪険にすることは出来なかった。
「ご苦労ですが、書状を確認しますので、少しの間だけ、控えてお待ちください」
 音楽科の皆が見ているから、どうしようかと迷った。それに、この人、誰だっけ? 絶対にどこかで一度、会っているはず……
 傍らに控えるユカのすまし顔を盗み見た。本来が法印皇女付き侍女官だから、久しぶりのお役目に嬉々としているようにさえ見えた。
 だから、使者殿に聞こえないように、小声で尋ねた。
「ユカ、あの人、誰?」
「第七艦隊群、基幹艦隊付きのペーシオン参謀官様です。半年前まで教導騎士団に所属されていました」
 あっ……!
 やっと思い当たった。
 この人、法印皇女に任命されてすぐに、起きた事件の際に、協力してくれた人たちの中に、そう言えば……この長身の騎士がいた気がする。あの時は、一度に大勢の方と会う機会が続いたから、正直に言うと、記憶力が追い付いていない。
 そして、ため息。
 教導騎士団から第七艦隊群へ、おそらくは戦技指導のために出向いている方だと解った。
 法王親卒教導騎士団には管轄区の制限がない。他艦隊への支援が必要とあれば、どこへでも行く。神出鬼没な緊急展開能力が売りのひとつ。
 だからって……音楽科の教室にまでやって来るんですか。
 それも参謀官自らが、こんな使者役を買って出るなんて。

 私のため息、参謀官殿にも聞こえたらしい。
「沙夜姫、あなたと侍女官殿は、今でも、天空艦隊編成表上では第十二法印船団として登録が残されています」
 これは知っていた。
 また、ため息。私の廻り、幸せがいっぱい漏洩しているかも知れない。
 たった二人だけの天空艦隊として正式な編成表に載っているの。冗談にしか見えないけど、派遣先はティンティウム市、遂行中の作戦名には加療中と記載されているはず。
 たった二人だけでも、規定上は艦隊司令部と同格の扱いだから……やっと気づいた。それで参謀官殿を寄越したんだ。
 ううん。正確には……加療中の私が楽しく学生生活を謳歌している様子を意地悪に見物する口実に使ったんだよ。きっと。

 地理の授業で使う世界地図の巻物みたいに大きい通信筒を抱いて立ち上がった。一応は機密保持のため封印が施されているから、これを開封魔法で開く必要がある。私の体格だと、この通信筒は一抱えもあって、椅子に掛けたままだと無理だった。
 でも、立ち上がると、いっそうにみんなの視線を集めた。参謀官殿もユカも私を見詰めていた。
 ……えっと、天空艦隊共通の簡易暗号で、今日、銀葉月四日金曜日の場合は……?
 通信筒の端に施された封印の図柄は、天空艦隊の全部で共通で使うとても簡易な暗号で解ける種類の物だった。簡単なフレーズの組み合わせだけで解けるから、機密保持というよりは、儀礼に近いと思う。
 やっと、フレーズの組み合わせを思い出して、口の中だけで小声で唱えた。
 りーんっと、開封を知らせる音色が音楽室に響いた。綺麗な音色だった。音響を配慮された音楽室の中だから、綺麗に聞こえるのかも知れないけど。

 ぽんと、蓋を抜いた。
 中身は、たっぷり魔法機環からの出力紙が丸めて収まっていた。
 小首を傾げながら、薄い炭酸紙の束を取り出した。右隅にゴム印で番号が附されていた。それには、枝番があって、「4」とある。つまり、各方面に送られた同一の資料のうち複写の四セット目ってことだった。
 疑問に感じたのは、この戦術資料の量だった。私が欲しかったのは、「みんな無事」の一言だったはず。事情を詳しく知らせるにしても、便箋で数枚程度を期待していた。

 第七艦隊群の絶対指揮権を帯びているレグル伯爵様が、あえて私宛にこんな分量の資料を寄越した意味を考えた。
 繰り返すけど、レグル様は、この二年間、私には何も文を送って来てはいない。メートレイア家と同様に辺境を守る役目を持つ武家であり、堅過ぎるほどの現実主義者だから、無駄なことはしないはず。
 ――何か、良くない理由があるに違いないと思った。

 炭酸紙に機械で打ち出した資料の中身は、地図や座標表。記号ばっかり。これは、戦闘速報と呼ばれている艦隊内部で使う関係者向けの情報だった。

 ――えっ?

 ざっと目を通して、レグル伯爵様の意図が解った。
「ゆ、ユカ、お願い、計算尺を貸して」
 震える私の声に気づいたユカが、怪訝そうに顔色を変えた。
 参謀官殿もにやりと笑みを口の端に浮かべて、ゆったりと歩み寄ってくる。この人、私がこの資料だけ見て気づくか、どうか、試したんだと思った。これだから、教導騎士団の連中は油断できないよぉ。何か文句を言おうかとも考えたけど、それは、後回しにした。
 取り巻く音楽科の生徒たちも、私の顔色が蒼ざめたことに気づいて、ざわめき始めた。
 計算尺を滑らして、ざっと計算してみた。
 あまり楽観視できない数字が出てくる。
 ため息をして、深呼吸して、気持ちを落ち着けようとした。
「ペーシオン参謀官殿。リグル伯爵様へは、『沙夜は、事情を了解しました。次報を待ちます』とお伝えください」
 参謀官殿は私の答えに満足したらしく、恭しく礼をして下がった。音楽室にいくつも他の生徒たちの嘆息が零れた。こんな有様じゃあ、当分、みんなに質問責めにされそう。
 隣に控えているユカの横顔を見遣ると、やっばり心配そうな表情のままだった。驚かせてしまったことを心の中で詫びる。
 でも、ユカには、私が何に気づいたのか、伝えておかなきゃいけない。
 ユカを招き寄せて、耳たぶに息を吹きかける。
「面倒な子がいくつもここへ向かっている。今は、レグル様が何とか押さえているけど」
 第七艦隊群は、精強で知られている。滅多なことじゃあ弱音も泣き言も言わない。それをユカも知っている。
「ここって……?」
 ユカは戸惑って聞き返した。
 私は、音楽棟二階の窓を見遣り、目線で示した。
「学校のお隣。ティンティウム大聖堂にある守護結界魔法陣を壊しに、妖魔の魔法機械がぞろぞろやって来る……そうレグル様はお考えなの」
 ユカは驚いて口元を被った。
 私は、忘れかけていたはずの天空艦隊や法印魔法のことを考え始めていた。

 アルカに質問責めにされたのは、このすぐ後。本当にアルカって、耳が聡いと思う。私が天空に還ることを考え始めているって、すぐに気づいた。
 後は、ごめんなさい。喧嘩して、私は泣き出して、逃げ出してしまった。
 気が付いたら、赤猫通に向かうトラムに乗っていた。

#.ティンティウム市朱鷺ヶ丘16番地

 芸術学院前駅でトラムを降りた。門限を過ぎていたけど、守衛さんにお願いして通してもらった。鈴猫のクッキーを数枚、差し入れに置いてきた。

 先生方や他の生徒に出くわすと、気まずいので、なるべく目立たない倉庫棟の近くを抜けて学生寮へ向かった。
 晩秋の夕闇は、少し肌寒かった。
 学内も銀杏の木があって、銀杏の実も所々に転がって、あの匂いがする。銀杏の落ち葉で金色の絨毯のようになった通路もある。

 鈴猫のクッキーを見詰めた。いつ見ても美味しそう。もしも、太古の漆黒妖魔が置き忘れた魔法機械が、このティンティウム市へ現れたりしたら、この学校も、鈴猫焼菓子店も全部、消えて無くなっしまう。
 それだけは、絶対に防ぎ切らなきゃいけないって思う。
 だけど、怖いの。
 私、二年前に妖魔と戦って大怪我をしているから。ううん。私自身が傷付くよりも、我を忘れて戦いに夢中になってしまった過去が怖い。
 ふいに大き過ぎた力を得て、その力に魅入られてしまった未熟な私が怖い。

 僅かに遅れて私の後を歩くユカを振り返った。ユカは、私がまた天空艦隊に戻ることを望んでいるのだろうか? それとも……?

 だから、みんなに私の本当のことを話して、この大切な私の居場所を守るんだって、声にしたい。
 たぶん――怖がりな私のわがまま。
 だけど、さあって思うと腰が引けてしまう。今まで銀杏金枝寮のみんなと一緒に過ごして楽しかったから。

 焼きたてクッキーの大袋を抱いて、銀杏金枝寮へ戻ったら、寮にいる女の子全員に取り囲まれた。寮のみんなは談話室に集まって、私たちの帰りを待っていた。
「沙夜、心配したよ」
「急に泣きながら出て行っちゃうんだもの、どうしたの」
「三人とも、夕食も、お風呂もまだでしょ、風邪ひくよ」
 口々に心配したって言われる。嬉しいけど、恥かしい。だから、言わなきゃいけないって、自身を励ます。そのために、こんなにいっぱいクッキーを買ったんだもの。
「あの、みんなに、言わなきゃいけないことがあるのっ!」
 声をあげたら、視線が集まる。半歩後ろでユカが控えている様子を、背中越しに感じた。
 深呼吸した。
「ずっと、隠していて、ごめんなさい。私、法印皇女なの」
 誰からともなく拍手が沸いた。
「やっと、言えたね」
「もう、そんなことで悩んでいたの?」
「夕食、沙夜の大好きなコーンシチューだよ。ちゃんと残してあるから」
 私は、きっと、鳩が豆鉄砲を食らったみたいな顔をしていたはず。何事もなく受け入れてくれるみんなが嬉しかった。


 甘い匂いの中に立って、深く頭を下 今日、みんなに心配させたことを詫びる。それから、少し長くなるはずのお話に付き合って欲しいと願い出た。
 私の小さな決心は、拍手で迎えられた。

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