神殿から外へ出た私は、星を見上げた。
地下にいたせいで気づかなかったけど、もう、夕闇がすっかり深くなっている。
「ラス、お腹すいちゃったね……」
いつもの調子で話しかけた。
でも、その時、外に待機していた騎士団のひとりが駆け寄って来た。
その様子を見て、とたんにラスの表情が厳しくなった……
そう、夕食どころではない出来事が起きていたの。
「ラス様、お待ちしておりました……アズレイア門から、至急の……」
私を気遣って、ラスが制した。だから、その続きは、小声になってしまって何が起きたのかわからなかった。
あの後、神殿でラスと別れた。ラスは、確か女王宮へ行くといってたと思う。
宰相府に貸し与えられた部屋に戻ると、夕食はごく簡単に済ませて、眠ってしまった。不安もあったけど、それ以上に疲れていたと思う。
そして、次の早朝……にわかに騒がしくなった宰相府の慌しさで、目覚めた。
ベッドから降りる。広すぎる部屋を歩き、中庭に通じる窓を開いて、私は目を丸くした。
まだ、夜明け前だっていうのに、まるで戦争でも始まるかのような有り様だった。
たくさんの松明が揺らめく。
真銀の甲冑で身を固めた騎士が、がちゃがちゃと歩き回る。
砲弾らしい木箱を満載した荷車が、次々と集められている。
開け放った窓から、白いカーテンを揺らして、冷たい風が流れ込んで来る。けれども、私は、息で手を暖めながら、中庭の様子を眺め続けた。
後ろでドアの開く音がして、足音が近づいて来る。歩み方で、何となく誰なのかわかったから、背中を抱かれると、身を委ねた。そのまま、髪を撫でられる。
「お疲れなのに、騒がしくて……」
「私なら、いいよ……謝るの、もう、やめにしよう」
私は振り返って、きっと、「お詫び」をいうつもりだったラスの言葉を遮った。
それよりも、知りたいことがあったから。
「教えて、何があったの?」
そう、私は、真っ先に昨夜からの疑問を口にした。
「アズレイア門に封印されていた妖魔らしきものが、動き出しました……封印を解かれる危険があります」
宰相府が、ほとんど非常体制といってもいい状態になった理由がわかった。同時に、封印されているものが、間違いなく、強力な妖魔であることも……
「そんな……おばあちゃんの封印魔法が破られるなんて、ないよ」
思わずいい返してしまった。おばあちゃん自慢の封印魔法は、七重結界だから、鉄壁と信じていたの。
ラスは、しかし首を振った。
「確かに、アズレイア様が行った封印は、極めて厳重なものです。風の魔法により三重の結界を施し、外側を地の守護魔法による結界が同じく三重……さらに、中間の第四層目に風と地の複合結界があります」
驚いたままの私に、ラスは続けた。
「昨夜のうちに、風の結界魔法は総て解封魔法により突破されました。第四層目の複合結界が強固なために、辛うじて妖魔を食い止めている状態です」
私は、ため息をついた。
月の魔法を駆使するような、とんでもない妖魔だったら、風の結界なんか一蹴りだと思う。たぶん、地の守護魔法も妖魔相手なら、風の魔法より少しマシというくらい。
「おそらく時間は、あまり残されていません……沙加奈姫、私に力を貸して頂けますか?」
それは、ひどく葛藤して辿り着いた言葉だと思う。
ラスは視線を伏せた。たぶん、ラスは私を巻き込んでしまうことを苦しく感じている。
だから、出来るだけ元気に、私はうなづいて見せた。
「月の魔法属性の妖魔と交戦する可能性もあります……本当に、よろしいのですか?」
「うん、大丈夫……アズレイア門とおばあちゃんの記憶、どっちも取り返さなきゃいけないもの。私こそ、お願いね」
一瞬、逃げたくなったけど、勇気を掻き集めて応えた。
攻撃魔法、大爆発っていうのは、やっぱり、怖いけどね。
「私は、どうしたらいいの? アズレイア門を開いて欲しいっていってたけど……」
ラスは、窓の外を指差した。
「木箱がたくさんあるのが、見えますか?」
「うん、あるけど……何なの?」
荷車に積んで来た木箱を、この宰相府の中庭で飛竜に積み替えて、どこかへ運び出しているらしい。
「真銀の魔法球弾です」
魔法球弾っていうのは、様々な攻撃魔法を真銀の球体に込めたもの。どこかの異世界で、巨大な鋼鉄のゴーレムを倒すために作られたものを輸入したらしいの。
「火の魔法系統の爆散火球呪文を主に、熱共振波呪文を混ぜたものです」
よくわからないけど、大爆発するらしい……逃げたくなるから、あまり、深く考えないようにした。
「妖魔を包囲する形で、アズレイア門周辺に攻城用の大型投石器を配置しました。今日の午後には、妖魔を集中攻撃する態勢が整いますが……」
ラスは、言葉を切った。
「妖魔との交戦は、避けねばなりません」
私は、小首を傾げた。これだけの準備をしておいて、なぜ?
「理由は、ふたつあります。まず、妖魔が我々の想定を超えるクラスのものだった場合、不用意な攻撃は、危険すぎます。彼らの逆鱗に触れたら、アルトシア世界は壊滅するでしょう」
後で聞いた話だけど、昨夜、女王宮でラスは必死になって、大勢の好戦的な意見を押さえ込んだらしいの。
「逆に妖魔を倒した場合にも危険があります。強力な妖魔は、多くの呪文や魔韻を体内に蓄えています。妖魔の血でアズレイア門を汚すことは避けたいのです」
私はうなづいた。
「呪詛世界に生息する妖魔には、莫大な量の死の呪文を体内に封印している種族すらいます。この世界を呪い滅ぼされる可能性も、ゼロではありません」
「だから、魔法球弾で脅かしてから……アズレイア門を開いて、妖魔を亜空間へ追い出すのね」
「そうです……そうですが、時空転移門を開くには、妖魔の間近にまで行くことになるでしょう。非常に危険ですが、本当によろしいのですね?」
だって、妖魔は、アズレイア門の魔方陣に居座っているのだから、同然にそうなるけど。改めて、そんな風に問われると、さすがに膝が震えた。
「うん。だって、ラスも一生懸命なんでしょ? 私も頑張らなきゃ」
急に抱きすくめられた。
息が止まりそうになった私に、ラスの声がささやく。
「沙加奈姫、あなたは優しくて、とても強い方です……でも、無理はしないで下さい。私も、あなたを守り切れる確信はありません」
私は、爪先立ちのまま固まっていたと思う。
「あなたが、まだ幼かった頃から、私は沙加奈姫のことを見詰めて来ました。先日、お話したとおり、初めは結界を管理するために……」
耳元でささやくラスの声と、私の心臓の音が一緒になって聞こえた。
「でも、いつの間にか……あなたの姿を求めることが、自分の中で大切なことに変わっています……失いたくは、ありません」
どうしてか涙が溢れてくる。
「私も……よくわからないことばっかりだけど……私にとっては、ほんの数日だけど、ラスのことが、好き……」
言葉を口にすると、急に胸が痛くなる。
魔法や呪文でなくっても、言葉には不思議な力があるみたい。
ラスの指が、私の額から前髪をゆっくりと払う。
瞳を閉じて、身を硬くしたままの私の額に、ラスの唇が触れた。
「光栄です……沙加奈姫のこと、必ず守り抜くことを約します」
ラスは、守り切れないといった言葉を、きっと、すごい決心をして覆したんだと思う。
ラスが部屋を出ると、すぐに早めの朝食になった。
今日は、いっぱい食べとかなくっちゃ……
そうしたら、きっと、ちゃんと、上手くいくから……
宰相府付きの女官たちが、また、いつものように衣装を持って現れた。
アズレイア門へは飛竜で向かうことになっているから、真っ白だけど暖かな生地の衣装を用意してくれた。空の上は、思ったよりも寒いんだよ。
それに、昨日の「小箱の試し」の時よりも、ずっと動きやすい。手伝ってもらわないと、上手く身に着けられないのは変わらないけどね。
そして、最後に真銀で創られたペンダントを差し出された。
「これは?」
淡紫色の布に載せられたペンダントを手にした。紫鈴草の房をふたつ束ねた図柄が彫りこまれていた。
「転移門の守人になられました巫女姫様の紋章にございます」
「私の……紋章?」
そして、ふいに思い出した。
「これ、おばあちゃんのと同じ……?」
宰相府付きの女官たちは、それぞれに顔を見合わせた。私が何かを思い出しかけていることに、戸惑っているようだった。
女官たちは視線だけで相談を交わした後に応えた。たぶん、何をどこまで話して良いのかも、ラスに指示されているらしいの。
「十五年前に、ある理由で、アズレイア様が女王様へお返しになったものです」
そういえば、聞いたことがある。
私が生まれるよりも前に、おばあちゃんは、自分の紋章を返したの。
理由は……私のお母さんが、「何か大変なこと」をしたからって……その責任を負う形で……
おばあちゃんが、転移門の守人としての名誉を返上して、片田舎へアズレイア門を移して……お母さんがしたことを償ったって……?
だから、私は、何も知らないで育ったの。
詳しいことは、ほとんど教えられていないまま。
だから、おばあちゃんの記憶が事故で封印されて……私が転移門の守人になった途端に、知らなかったことが次々と転がり出てくるみたい。
おばあちゃんは、「何か」を隠していた。
そして、ラスもたくさんの隠し事をしている……
でも……と、私は首を振った。
ラスは、約束してくれた。味方だって。そばにいてくれるって……隠し事ばっかりされるのは嫌いだけど、信じようと思ったの。
中庭へ降りると、ラスはすごく大きな飛竜と一緒に待っていた。
「宰相家で一番に速い飛竜です。名は、グルーオン」
真っ赤な刺繍入りの布をまとった飛竜は、見事なまでに立派で強そうだった。やっぱり宰相様ともなると、乗り物も一味違うらしい。アルトシア門で乗せてもらった騎士団の飛竜が貧弱に思えるほどだよ。
そして、ちょっと心配になった。
「私、乗せてもらえるかな?」
飛竜は、確かに竜族の中では人に飼い馴らされた下級種だけど、ここまで立派なのになると当然に気位が高くて乗り手を選ぶの。
私に問われて、ラスは初めて気づいたらしい。そりゃあ、ラスは家柄も成績も総てが立派だから、そんな心配したことないかも知れないけどね。
「私、沙加奈っていうの、よろしくね」
グルーオンって名前の飛竜は、私を見て……微かに視線が笑った。ちょっと、背筋が寒かった。ご馳走を目の前にした獰猛な爬虫類の微笑……そんな気がした。
「気に入られたようです、大丈夫、乗れますよ」
ラスは、私の気も知らないで微笑した。
「気に入ったのは、どっちの意味よ……乗り手として? それとも、美味しそうなお弁当としてかなぁ?」
ラスが、可笑しそうに、くすりと笑った。作って見せる微笑じゃなくて、本当に吹き出した自然な笑い。
少しだけ、むっとしたけども、許してあげることにした。計算済みのシナリオ通りの微笑よりも、好きになれそうだから。
飛竜の背中には、私の分もちゃんと鞍が用意されていた。手を伸ばして、ラスに引っ張り上げてもらう。
「沙加奈姫、急ぎますが……よろしいですね」
私が小さくうなづくと、ラスの腕が後ろから回された。左手で私を抱き支えたまま、右手で手綱を握る。青白い秀才タイプのラスも、こうして見ると意外と逞しい気がする。
ラスの掛け声とともに飛竜グルーオンは、空中に羽ばたいた。
行き先は、アズレイア門……
妖魔をこのアルトシア世界から追い出して、アズレイア門と、おばあちゃんの記憶を取り戻すために……
アズレイア門は壊れているって、スィア門で聞いたけど……
それに、私、転移門の守人に一応はなったけど……ちゃんと、転移門を開けるのかな?
不安はいっぱいあるけど、いまは何とかするしかないって思った。