転移門の守人 #9
ひとつめの物語~ #9 呪詛世界への回廊

 

 甘酸っぱい柑橘類のような匂いが私を包んでいた。
  ここ、どこ……?
 ほんの短い眠りから目覚めた私は、すぐに悲鳴をあげた。
 飛竜から落ちたはずの私は、あの妖魔の腕の中に抱き止められていた。
「離してっ!」
 知らない世界の衣装を身に着けた老人の姿をした妖魔は、意外なほどに大柄で逞しい。
 真っ黒で固い地面に降ろされた。そこが、あの巨大な魔鯨の背中だと気づく。見回すと、私と妖魔だけが全くの暗闇に立っていた。グルーオンも、ラスも見当たらない。
 頼れる人は誰もいない。かなり怖かったけど、私は妖魔に向き直った。
「あなたね、さっきから、意味のわからないことばっかりいう人は……」
 まだ身体に甘い匂いが絡みついている。足元がおぼつかない。
 フードを目深に被って表情を隠した妖魔が、口元だけで薄ら寒く笑う。
「我は、選択の儀式を執り行うべく呪詛満ちる世界より遣わされた……巫女姫、お目にかかること、光栄に存じます」
 老人の姿の妖魔は、胸に手を当てて恭しく、そして芝居がかった一礼をした。
 正直にいうと、私は、取って食われちゃうんじゃないかって、怯えていたの。
「ご安心召されよ。少なくとも、巫女姫たるあなたを傷つけるようなことはせぬ」
 私の中でたくさんの疑問符が回っている。それなのに、甘い匂いのせいで、考えがまとまらないし、足元すらおぼつかないみたい。
「ラスは……?」
 私の問いに、妖魔は凄みのある微笑を口元に浮かべる。
「あの若者のことが、気になるかね? 巫女姫のこと、何もかも知るあの宰相殿のことを、たいそう好いているように見えたが……」
 私はうなづいた。
 妖魔は、とっても意地悪な笑い声をあげた。残酷なことが始まりそうな予感に、私は思わず身構えた。
「怖がらなくとも、よい。巫女姫の誤解を解いてやろうと思うだけじゃ」
 くっくっくっ……と、老人は小気味良く笑い続けている。
 そして、乾いた笑いの後にいう。
「巫女姫、あなたは封印される……」
 いきなりの言葉に、私は小首を傾げた。その仕草を面白がって、老人がまた笑う。すっかり笑い魔人になった妖魔に笑い者にされて、私は頬を膨らませた。
「実は、巫女姫の記憶を少々、見せてもらった。まことに興味深い内容じゃった」
 そして、笑う。
「宰相家でも随一の切れ者の……あのラス殿が、子供の恋愛ごっこに夢中だとは……」
 また、笑う。私は、やっと気づいた。目覚めたとき、私の身体を包んでいたのが魔香の匂いだったことに。
「巫女姫、あなたは、なぜ、気づかぬ? ヒントはすべて揃っているはず……」
 乾ききった笑い声が続けた。
「なぜ、巫女姫のことを知り尽くしていたか? なぜ、月の小箱を触らせなかったのか? なぜ、沙羅様のことを隠そうとするのか? ……なぜだと思われる?」
 妖魔の笑い声は、どこか勝ち誇っているかのように得意げだった。
「ラス殿は、巫女姫が危険な力を秘めているから、監視し続けていたのだ。もしも、我々が近づこうものなら、ただちに巫女姫を封印できるようにな……見張り続けているうちに、恋心を抱いたとは笑い種だが……」
 私は、妖魔の言葉がすぐには信じられなかった。でも、ラスが何度もお詫びをくり返した本当の理由をいい当てているように感じたの。
「私を封印するって、どういう意味よ?」
 妖魔は、にやりと笑う。いったい、どれだけ笑えば気が済むんだろう。
「時間凍結封印……かつて、沙羅様にこれを試みて成功しなかった」
「もっと、わかるように話して!」
 苛立った声をあげた。ついに、私は、この笑い妖魔がちらつかせる秘密のしっぽに、飛びついてしまったの。
「時間を際限なく遅くする結界魔法だよ。瞬きひとつする間に、数十年もの歳月がすぎる。この魔法をかけられた者は、老いることのない生きた人形になる。しかも、自分では、それと気づかない……」
「どういうことよぉ?」
 知恵熱が出そうな話だった。
「簡単なことだ。アルトシア世界の時間の流れに比べて、巫女姫の時間の流れる速さを極端に遅くする魔法と考えればよい」
 私は、まだ小首を傾げたかった。でもね、笑われるのが嫌だから、うなづいて理解したふりをした。
「だが、魔法を完成させることは難しい。それを、かつて、まだ年端のゆかぬ少年だったラス殿に仕掛けられたのだ。幸いにも、沙羅様のお力が勝っていたために、大事には至らなかったが、我々の計略の多くが狂った」
 妖魔は、昔話の後に「まだ、巫女姫が生まれる前の話だ」と、付け加えた。

 私は、ため息をひとつついた。何せ、意地悪な妖魔のいうことだから、全部が作り話の可能性も充分にある。うそつき妖魔の話術に囚われそうな気がして、少しでも頭をはっきりさせようと、何度も首を振った。
 でも……ずっと、私から隠されていたことの答えかも知れない。
「まだ、お話はあるんでしょ? 教えて欲しいな……」
「信じられるのかね?」
「聞いてみなきゃ、わからないよ」
 私は、半信半疑だよと、そう表情に出して見せた。
「いい答えだ」
 妖魔は、珍しく意地悪ではない微笑を浮かべた。
「さて、何を知りたいかな?」
「お母さんのこと」
 真っ先に知りたかったことを口にした。妖魔は、一瞬だけ考える仕草の後にうなづいた。
「沙羅って、いうんでしょ? それに、さっき、あなたは、沙羅様から遣わされたって、いったけど……どういう意味なの?」
「いかにも、我は沙羅様にお遣えするする身……そして、星と月との選択の儀式を執り行うべく命じられた」
「星と……月と……?」
 私は、聞き返した。
「星を選択したければ、我を平伏し浄化せよ。さもなくば、月に魅入られたことになる」
 すると、妖魔は先ほどからの意味不明な言葉をくり返した。どうしたら、こんな強力無比な妖魔を、私がやっつけれるっていうの?
 妖魔はさらに、聞き逃せない言葉を続けた。
「月を選択するなら、母上、沙羅様に会うことができる。引き換えに、多くを失うことになるがね……」
 お母さんに会える……その言葉に、私は愚かなほどに敏感だった。だんだんと、この笑い妖魔の話術にはめられてゆくようね。けれども、知りたいという気持ちが止められない。
「お母さんは、どこにいるの?」
 妖魔は、この問いを待っていたかのようだった。
「あなたが生まれた場所……呪詛満ちる世界に」
 私は、息を呑んだ。信じられない言葉だった。
「私が、呪詛世界で……?」
 妖魔は、うなづく。
「ラス殿が、あなたを危険視する理由だ。巫女姫、あなたは転移門の守人でありながら、呪詛世界の在り処を知っている」
 小さかった頃に、大人たちが騒いでいたこと。そして、おばあちゃんが言葉巧みに隠したことだった。でも、私は気づいてしまった。口元を押さえたまま立ち尽くした。
「もう、おわかりだろう、巫女姫、あなたは望むなら呪詛世界への回廊を開き、アルトシア世界に死の呪いを撒くことができる」
「うそよ……」
 妖魔は、うれしそうな、そして意地悪な笑みを浮かべた。
「うそか、本当か、試してみるべきと、思うが、よろしいかね?」
 私は、弾かれたように首を振った。
 だけど、妖魔は許してくれなかった。
 そして、信じたくもないことが、始まったの……

 初めは、少しづつ……でも、だんだんと私の中で大きく膨らむ……
 操られる!
 気がついたときには、両手を上へ振り挙げていた。
「何を、させるつもりよっ!」
 自分の身体が、私の意思を離れて、勝手に魔法を使い始めそうなのを、必死に押さえ込みながら、叫んだ。
「いい忘れていたが、あなたの父上は、呪詛満ちる世界において高貴な位に就かれている方なのだ。しかし、あなたは、呪詛世界の皇女としてあるべき、力の使い方を知らなさすぎる」
 名前すら知らないお父さんのことを妖魔は口にした。会いたいと考えないようにして来た。だって、おばあちゃんは、お父さんのことを、よく思ってはいないみたいだったから。
「待って、何をさせるつもりよ?」
 妖魔は微笑しただけ。代わりに、私の周りに金色の魔法符形が次々と湧き出してくる。
「……我、沙加奈の名において命ず、白亜の亜空を貫き異世界への……」
 だめっ!
 時空転移門の扉を開くための呪文を、自分の唇が紡ぎ始めたことに気づいた。慌てて、口をつぐんだ。
「……我、望む異世界への月の魔法に紡がれる扉……」
 でも、止められない。
 そう、妖魔は、甘い魔香の匂いで私の記憶を覗き見ただけでなく、私を操り人形にするための魔法までかけていたの。
 飛竜から落ちたときに、エルゴ球はどこかへ行ってしまった。でも、あんな魔法機械に頼る必要も、拒否されることもなかった。信じられないことだけど、妖魔は、私の中にある魔法力だけで転移門を開こうとしていた。
「妖魔が宿す魔法力は、人の比ではない。巫女姫、あなたにも力の使い方を教えて差し上げよう……人という器に囚われることのない、月の魔法を」
 七重の同心円状にアズレイア門を表す符形が形作られて、さらに、次々と周転円が統合されて、見る間に収束解へと導かれてゆく。あんなに、苦しんだ魔法式だったはず。それなのに、いまは、総ての答を知っていたかのように解けてゆく。
 そして、転移門の扉となる淡い光がゆらめきの中から輝き始めた。
 信じたくなかった。
 私の中に、妖魔と同じ月の魔法が眠っていた。
 呪詛世界に生まれた者だけが、呪詛世界の在り処を知り、転移門を開くことができる。
 そうよ、呪詛世界に生まれた私は、妖魔の血を受け継いでいる!

 どこかで、解封魔法を使う気配がした。二度、三度とくり返される。だんだん近づいてくる。
 妖魔は、またも面白そうに笑った。
「来たな、待ちくたびれたぞ」
 そして、気づいた。気配が、ラスの魔法だということに。私を助けに来てくれたに、違いない。意地悪な妖魔が張り巡らせた漆黒の障壁を破りながら、近づいてくる。
  でも……来ないで……
 月の魔法に紡がれた回廊は、遥か彼方にある呪詛世界を目指して、次々に伸ばされ続けている。
 ラスは、私のことを信じてくれた。でも、私はラスの期待に応えられなかったばかりか、アルトシア世界を滅ぼそうとしている。
 月の魔法の回廊が、数億の距離を越えて呪詛世界に達したとき、最後の扉が開かれる。
  そんなことしたら、私、ラスに嫌われちゃうよ……

 間近に、ラスの唱える解封魔法が聞こえた。
「さあ、お芝居を始めようか……恋愛ごっこと、星と月の選択との」
 妖魔は、飛びっきり意地悪な声で笑った。

「沙加奈姫っ!」
 叫び声が湧きあがった。心臓が止まりそうになる。
 ゆらゆらと揺れる転移門の薄紫色の光の柱を背にして、振り向いた。ラスだった。ラスが来てくれた。
  ごめんなさい……
 驚いて、見回す。言葉が出ない。またも、妖魔の仕業だった。
 ラスの瞳が見開かれた。私が何をしているのか、気づいたの。
  違うのっ! こいつが、私を操っているのっ!
 声が出ないし、身体の自由も利かない。
 視界の端っこで、妖魔がにやりと笑う。
「あまたの民に、白き骨の呪いを、静寂が満たす灰の呪縛を……」
 私は、とんでもない呪文を唱える唇を噛んだ。赤く血が滲んでも、まだ、魔法が止まらなかった。

≪ Prev Page | Next Page ≫