私が、呪詛世界の皇帝陛下の娘……?
きっと、信じられないって顔で、私は立ち尽くしていたんだと思う。急に、恭しく態度を改めたクレッセントが続けた。
「突然のことで、信じられないかも知れませんが……」
クレッセントが、指を鳴らした。
ふいに、景色が一変した。
あの一ヶ月前のアズレイア門魔方陣に……
驚いた私は、思わず口元を押さえた。
「ここは……」
「巫女姫がお作りになった呪詛世界への回廊です」
あの時、開かれることのなかった呪詛世界への扉が、金色の円環魔方陣の中央で淡く揺れていた。
でも、私とクレッセント以外には誰もいない。
「あの時、シャムシール殿は詳しく申し上げませんでしたが……数億の距離を越えて亜空に回廊を渡す魔法力は、人という器に可能な力ではありません」
私は、うなづくしかなかった。
魔香の匂いに操られていたけど、私は、あの時、自分の身体の中から汲み出した魔法力だけで呪詛世界への回廊を紡いでしまった。エルゴ球さえいらなかったの。それが、月魔法の妖魔でさえも超えるほどに大きな魔法力だってことも、何となく、わかっていたの。
そう、シャムシールさんも、あの時、そういってた。
妖魔が宿す魔法力は、人の比ではない。巫女姫、あなたにも力の使い方を教えて差し上げよう……人という器に囚われることのない、月の魔法を。
でも、それでも、そのことは、忘れようって思ったの。
だって、ラスは命がけで私を守ってくれた。
大勢の人々から私を隠して庇ってくれたの。
自分にも妖魔と同じ魔法力があることを、だから、忘れようって思った。
再び、クレッセントが指を鳴らした。
景色が、元通りの静まり返った音楽講堂に戻った。
たぶん、私は青ざめていたんだと思う。クレッセントの語る声が優しくなる。
「ご理解いただけたようですね……巫女姫のお力は、転移門の守人である沙羅様と、呪詛世界皇帝であらせられるギルティア陛下とから、血を受け継いだがゆえのものなのです」
小さく小さく、怯えたまま、うなづいた。
呪詛世界という名の恐怖が、私の血の中に溶けている。もう、それだけで充分だった。
でも、クレッセントは砂の山に埋もれた観客席を指し示して、言葉を続けた。
「どうして、こんな悲惨なことを我々が仕組んだと思いますか?」
「それは……」
あなたたちが、悪い妖魔だから……そう、単純に決め付けたくっても言葉にならない。
「それは、暁星の魔道師が、星魔法でギルティア陛下の半身を殺めたからです」
「半身を? それに、暁星の魔道師って?」
先ほどと微妙に違う台詞に、私は小首をかしげた。
クレッセントは、仮面の下で微かに微笑したようだった。
「巫女姫は、まだ、ご存知ではなかったですね……我々、高位の妖魔は、魔獣の姿と、人の器とのふたつの姿を持っているのです。例えば、シャムシール殿は、人の姿の他に巨大な一角の魔鯨の半身を持っている」
私は、またも、うなづくしかない。
確かに、シャムシールさんは、そういっていた。
「それは、皇女である巫女姫にも当てはまります。あなたにも、その可愛らしい少女という人の器の他に、魔獣の半身が存在します。いまは、遠く彼方の異世界に眠っていますが……
暁星の魔道師については……私は詳しくは存じません。我々を狩ることすら可能なほどに、高位魔法を使役し得る能力の持ち主であることは確かですがね」
驚かされてばっかりだった。私は、声も出ない。
「ギルティア陛下は、沙羅様を愛したゆえに、ペザ世界の愚民らに陥れられたのです。彼ら、愚かなる者たちは、暁星の魔道師を招き寄せ、ギルティア陛下の人の姿を封殺しました。そして、ギルティア陛下の魔獣たる半身は呪縛を受け、その魂は、いまなお、目覚めることなき悪夢を迷っておられます」
私はただ、立ち尽くして、クレッセントの言葉を聞いていた。誰もいない観客席に向けて、冷たい言葉が高く響く。私は、台詞を忘れたように、ただ、冷たい舞台に立ち竦んでいたの。
「おわかりだろうか? 沙羅様は、ご自身を責めておられます」
ペザ門で夢現(ゆめうつつ)で聞いた会話を思い出した。お母さんは、その星魔法を操る魔道師を追いかけていたんだ。
「そして、魔道師は時空転移門を通り、異世界から異世界を渡り歩いているのです。その所在を求めることは、不可能事でした。
ですが……期せずしてチャンスが訪れました。それは……ペザ世界の初夏の音楽祭に、あの魔道師が招かれたのです。少なくとも、沙羅様の演奏までは音楽講堂に魔道師はいました」
お母さんの怜悧でしかも冷たい演奏の訳が、わかった気がした。
「しかし、我ら、月魔法の妖魔さえも、星魔法の力にはおよびません。だが、たとえ暁星の杖を持つ魔道師とて、死と砂と骨の呪いからは、逃れられない。ゆえに……」
聞いた途端に、かっと、頬が熱くなった。クレッセントの言葉を私は、遮った。
「だから、お母さんを騙したのね!」
だけど、クレッセントは大げさな身振りで両手を広げた。
「いいえ、シャムシール殿は公正に、月と星の選択の儀式を執り行われた。沙羅様は、月に魅入られることを自ら望まれたのです」
「うそよ……」
私の声は震えていた。でも……クレッセントはともかく、シャムシールさんは人を騙すことはないと思う。確かに邪悪な月魔法の妖魔だけど、でも、違うの。シャムシールさんは、巨大な自分の魔法力を知っている。だから、小細工なんかしない。そんな人だって思う。
「沙羅様は、ご自身を激しく責めておられます。転移門の守人と妖魔の恋は、許されぬもの。そして、沙羅様だけが罪を許され、ギルティア陛下は、いまなお、呪縛を解かれぬまま悪夢にうなされています」
転移門の守人には、世界を守護する結界に、たったひとつ開いた時空転移門という扉を守る役目があるの。それは、とても大切な役目。もしも、時空転移門が妖魔の手に落ちたら……それは、世界の破滅に繋がってしまう。
だから、一ヶ月前のアズレイア門の出来事のとき、おばあちゃんは、記憶と引き換えにしてでもアズレイア門を封印して妖魔を防いだの。
もしも、自分が守る時空転移門に妖魔が現れたら、絶対にそれを食い止めなきゃいけない。それが、転移門の守人の大切な役目。
だから、妖魔に恋してしまうなんて、できないはずなの。
「こんな、お話、信じられないよ……」
私は絶えられずに泣き出してしまった。どうして、こんなに弱いんだろう。
私のすすり泣く声が、静まり返った音楽講堂に揺れている。クレッセントは、しゃくりあげる私を静かに見守っていた。
「巫女姫、あなたには、もうひとつだけ、知らなくてはならない真実があります」
「もう、やだ……」
耳を塞いで、うずくまった。もう、何も聞きたくなかった。
でも、クレッセントの声が、急に近づいて……ノッポのクレッセントがまるで空気に溶けたように、耳元でささやいた。
「ペザを滅ぼしたのは、本当は、誰れだと思いますか?」
心臓が止まったかと思った。
どきどきする左胸を押さえて立ちあがったときには、もう、クレッセントの姿はどこにもなかった。本当に、冷たい空気に溶けてしまったかのように。
私は、もう、半分だけ、その答えに気づいているの。
でも、怖くって、考えないようにしていた。
だって……
だって、それは……お母さんは、呪詛世界の在り処を知らないはずだもの。
だって、お母さんは、ちゃんとした転移門の守人で、アルトシア世界の生まれで、どんなに優秀な才女だったとしても人間だもの。
だから、お母さんは、ペザを滅ぼした呪詛世界への扉を開いたとき、私の名前を使って、時空転移門を開いた。
でも、そんなのやだ。
いやだ。こんなの信じたくないっ!
ふいに、舞台の片隅から消え残る残響のように、クレッセントの声がいった。
「さあ、それをご自身で確かめなさい。大鐘楼へ行けば、そこに答えがあります」