生まれる前の沙の夢 #5
生まれる前の沙の夢 #5 ~星見術師と胡蝶の花

 くすり……と、星見術師様が微笑った。
「ご心配なく、ラス様は、すぐに、いらっしゃいますよ」
「えっ?」
 私が思わず声を漏らすと、星見術師様は、再び可笑しそうに、くすくすと微笑う。
「ラス様がおっしゃるとおり、可愛らしい方ですね」
 宰相府についたとたん、私の視線は自然とラスを探していた。たぶん、それに気づいたんだと思う。
 でもね、不思議な女性だった。
 たぶん年齢は、ラスと同じ二十代前半で、背格好もラスと同じくらい。とてもきれいな人で、ほっそりとして、繊細な感じがした。
 でもね、言葉にできないんだけど、どこか、不思議な感じがするの。

「さあ、お疲れでしょう。これをゆっくり飲んで下さい。そうしたら、ラス様がお見えになりますから……」
 差し出されたのは、微かに紅く色づいた薬湯だった。
 魔法学院では、勉強の一環として様々な種類の薬湯の作り方も習うけど……実は、試飲が楽しみだったりするんだけど……星見術師様が淹れてくれた薬湯は、いままで飲んだものとは、やっぱり、どこか違う感じがした。
 それでね、私がいわれたとおり、ゆっくり薬湯を飲み終えたときだった。星見術師様が、恭しく入り口に向かって頭を下げたの。
 そうしたら、振り向くと……ラスがいた。
「沙加奈姫、突然に呼び寄せてしまって申し訳ありません……」
 ラスは、まるで約束事のように、お詫びの言葉をいう。
 私、ラスに会ったら、今度こそ、お母さんのことや、私自身のこと……いろいろ聞き出すつもりでいた。シャムシールさんや、クレッセントの言葉が気になっていたの。
 でもね、それなのに、声を聞いたとたんに、私の中で何かが弾けてしまったんだと思う。
 いきなり飛びついた私を、ラスはちゃんと受け止めてくれた。
「ラス、ずっと会えなくって、ずっと会いたかったっ!」
 私の子供っぽい言葉に、ラスが微笑った。
「沙加奈姫……私も、ずっと会えなくて、いつも会いたいと思っていましたよ」
 私は、もうちょっと、甘えたかったんだけど……すぐそばで、星見術師様が、ラスにささやいた。
「ラス様、巫女姫様を急ぎ招き寄せたのは、砂を調べるためでは?」
「そうでしたね」
 ラスが微かに照れていた……ように思う。
 もちろん、私は急に恥ずかしくなってしまったけどね。

「沙加奈姫、少しだけ、じっとしててください」
 そういうと、ラスは私の髪を丁寧に撫で始めた。
 それから、服の襟元を少しだけ緩められた。
 それから、髪だけじゃなくって、頬、耳たぶの裏、後ろ襟、首筋、肩、襟元まで……順番に私の肌を撫でてゆくの。くすぐったい。それに、ちょっと、恥ずかしくて、急にこんなことされて、びっくりして……
「ちょっ、ちょっと、ラスっ!」
 我慢できなくなって、声を上げた。
 でもね、ラスは……私に触れた後の指先を、恐いくらい厳しい視線で見つめていた。
「間違いないようですね……」
 星見術師様の言葉に、ラスがうなづく。
「セシュナ、沐浴の用意をっ!」
 星見術師様のことを、セシュナってラスは呼んだ。自己紹介がまだだったけど、セシュナ様っていうらしい。
「お申し付けがあると思い、すでに、胡蝶草の花弁を溶かしてございます」
 セシュナ様が、恭しくラスにお辞儀した。
「さすがですね……後は、任せます」
 ラスは、ちょっと驚いた様子だけど、そう、うなづいた。

 後で聞いた話だけど……セシュナ様は、ラスの一番の腹心らしいの。月の妖魔にまで噂されてるくらいだから、当然かもしれないけど……ラスと同じで、ものすごく優秀らしいの。
 「宰相ラス様の影」とまで噂されているとか……

 それと、ラスが驚いた顔をしたのはね……胡蝶草はアルトシア世界にはない植物で、異世界から輸入しているの。それも、異世界で咲いた花を一昼夜のうちに取り寄せて、薬湯にしなくっちゃ効き目がないらしくって……
 セシュナ様って、ラスと同じで、すごい。
 だけど、いろんなことが、ラスと同じで……なんか、ちょっとだけ、面白くない。

ラスと別れた私が、セシュナ様に連れて行かれた先は、宰相府のたぶん一番に深い地下室だった。
 湯気と、微かに甘い花の匂いが漂っていた。
  沐浴って、ラスはいってたけど……
 正直にいって、宰相府の地下にこんな場所があるなんて思わなかった。
「少し、驚かれたようですね」
 セシュナ様が涼しげな顔で、まるで私がどんな顔をするのか楽しみだったように、にっこりと微笑った。
 セシュナ様の説明によるとね……
 ここは、宰相家に仕える者ですら一部の人しか知らない、秘密の祭儀場らしいの。あまり公にし難いような魔法の儀式や、重要だけど秘密の占いをするときや、ごく少数の人だけでヒソヒソ話をするときなんかに、便利な場所らしい。
 良くわからないけど、宰相家ともなると政治にも、魔法の儀式にも、秘密がたくさんあるらしい。
 だから、ラスは最も信頼のおける家臣、つまり、星見術師のセシュナ様に、ここを預けているんだって……
 セシュナ様は、ちょっとだけ、誇らしげで……私は、少しだけ、悔しかった。私は、守ってもらうだけだもの。

 それでね、びっしりと符形を描き込んだ絹の布を張り巡らせて、結界が作られた中に案内された。
 柔らかい麻布で作られた沐浴用の衣を手渡された。沐浴といっても、ちゃんとした魔を払う儀式だから、ちゃんと衣装が用意されているの。沐浴用の衣に着替えるのは簡単だった。だって、頭からすっぽり被って、腰で結うだけだもの。
「良く、お似合いですよ……やはり巫女の血筋ですからね」
 セシュナ様にそういわれてもね……あんまり実感がなかった。魔法符形を描かれた沐浴用の衣は、麻なのに驚くほどに柔らかくて、素肌に着けているのに少しも気にならない。でもね、少し緩くって……気をつけてないと肩が滑り落ちてしまいそう。姿見の前に立つと、巫女として似合うとかの話より以前に、何か、ちょっとだけ、恥ずかしかった。

「さあ、こちらへ……急造りなものですが、胡蝶草の花弁を溶かした《除惑の薬湯》です」
 青銅製の大きな器に淡い桃色の湯が張られていた。本来は、占いの儀式に使う祭器なんだけど、ちょうどいい大きさだったから、湯船にしてしまったそうで……なんか、どこか変な感じだった。
「胡蝶草の花って、初めて見たけど、すごく、きれいね」
 淡い桃色のお湯ごと、湯船いっぱいに浮かんだ花のひとつを掬って見た。
 それに……甘い匂いで……魅惑の魔法を掛けられたみたいに身体の力が抜けそうで……気をつけてないと、眠ってしまいそう。

 セシュナ様は、私の後ろに立って、私の髪を解いた。そんなに伸ばしてないけど、ネコっ髪だから結んでいたの。こんな風に丁寧に髪を洗ってもらうのは、久しぶりだった。魔法学院に留学する以前は、ときどき、おばあちゃんに面倒見てもらってたけどね。
「沙加奈姫、あの砂を入れたガラス瓶、どこへ隠したのですか?」
 ほんのりした気持ちで髪を洗ってもらうときに、さりげなく……だから、私、中庭の花壇って、うっかり答えてしまった。
「し、しまったっ……」
 大慌てで口元を押さえたけど、間に合わなかった。
 くすくすと、可笑しそうに笑われた。もお、「沙加奈姫」ってラスの真似するのは、反則だよぉ。
「本当に、可愛らしい方ですね……」
 むっとした私を、ひとしきり笑ってから、でもね、急にセシュナ様が声をひそめた。後ろから肩越しに、濡れた髪をあげて、耳元にささやかれた。
「ご安心下さい……ラス様には、あのガラス瓶のことは申し上げていません」
  えっ?
「それに、姫のお耳に入れておきたいこともございます」
 ラス様には内緒で……と、セシュナ様は付け加えた。
「でも、そんなことして、いいの?」
 だって、宰相府にいる人々は、女官も、騎士たちも、それにあの司祭様までも……秘密を守るように指示されているはず。
「いかにラス様といえども、この部屋までは見透かせませんから……それに、ラス様のそば近くに仕えて来た者として、本当にあの方のためになることをしたいのです。たとえ、一時、ご不興を被ることになっても」
 セシュナ様の言葉は、真剣だった。私は、下を向いてしまった。
 ラスは、本当に誠実な人だから……宰相府にいる人々は、ラスのこと慕っている。だから、異例な若さで宰相職を任されている。
 なのに、私、何にもできないし、迷惑をかけているし、それなのに、大切にされていて……でも、私、大切にされる理由すら知らない。


「姫と、ラス様が初めて出会ったのは、いつだと、思われますか?」
 秘密のお話は、セシュナ様のこの問いから始まったの……
「一ヶ月前、おばあちゃんが記憶を亡くしたときに、病院で」
 肩越しに、セシュナ様がゆっくりと首を横に振る気配がした。
「あなたが生まれる前の年、初夏、アルトシア門魔方陣で……まだ、沙羅様のお腹の中に芽生え始めたばかりのあなたと……」
「そんなの、出会ったって、いわないよ」
 声をあげてから、私は、突然に気づいた。
 クレッセントは、確か、ペザが呪詛世界への扉を開いて滅びたのは、私が生まれる前年だって……
 そして、心に浮かんでくるのは、あの不安な言葉……

 沙羅は、月に魅入られた。
 その娘は転移門の守人でありながら、呪詛世界の在り処を知っている。

 それに、シャムシールは、私が生まれる前の昔話って……
 時間凍結封印……かつて、沙羅様にこれを試みて成功しなかった。

「やだっ!」
 暖かいお湯の中にいるのに、身体が震え始めた。耳をふさいだのは、恐くなってしまったから……やっと、しっぽが見えた「答え」は、とても意地悪な顔をしていた。

「お聞きなさい……それができないなら、砂を入れたガラス瓶を私にください」
 私は、もう、泣き顔になっていたけど、セシュナ様は優しく髪を撫でてくれた。
「砂が見せようとしている夢は、もっと、残酷な真実です。ラス様が、隠そうとなさるのは、姫の心が壊れてしまうことを恐れているのです」
 だから、ラスは何もいえずに孤独なまま苦しんでいる。
 心の中で、自分を責める声がする。
「耐えられないのなら、あの砂を私にください。あの《魅惑の砂》は、本来、人を夢で操り弄ぶための物。存在を許されない砂です。総て、胡蝶草の花弁に溶かして、消し去ります」
「だめっ!」
 振り返った。
 セシュナ様は、とても気遣わしげな目をしていた。
「お母さんの学校の友達だった人に会えるっていってた……私、本当のこと知りたい」
「シア様のことですね……」
 セシュナ様は、ため息をついた。
「知っているの?」
「はい……私も幼い頃に、ペザのレアルティア音楽学院で学んだことがあります。シア様とは、同じクラスになったこともあります」
 セシュナ様は、微かに笑った。少し淋しそうな微笑で。
「姫、あなたと良く似ているんですよ。シア様は……」
 小首を傾げた私に、セシュナ様が微笑した。
「私は、あの頃、確か、初等部のオルガン科にいました。シア様は中等部でしたけど、試験の結果が悪くって……初等部の私たちと一緒に補習を受けていました」
 一瞬、セシュナ様が泣きそうな顔をした。
「あのとき、ラス様も一緒でした。楽典の授業のときは、シア様が答えに詰まると、ラス様が代わりに問題を解いてました……」
  セシュナ様……?
「ピアノの試験ときにも、ラス様に伴奏を弾かせたり……」
 私は、夢の中で繰り返し見た音楽学院の光景を思い浮かべた。音が途切れた、砂だらけの光景を。
 でも、そこは、セシュナ様にとって、ラスやシア様にとっても、きっと、光り輝いていた場所だったの。
 でも、その幸せなときを壊したのは……
「ペザが滅びたのは、初夏の音楽祭の午後でした……突然に、ペザ門が開かれて、呪詛世界から無数の死と砂と骨をもたらす魔が送り込まれたのです」
 セシュナ様が、私を問うように見返した。
「続けて……」
 私は再び震え始めた膝に、黙るように命じた。
「ペザは一昼夜とかからず、総ての人々を砂に変えられて滅びました。そのとき、幸いにも私とラス様は、アルトシア世界に戻っていましたから難を逃れました。でも、シア様は助からなくて……その日、音楽祭で真銀のパイプオルガンを弾くはずでしたから……」
 私は、何度も繰り返し見た、あの不思議な夢の意味がようやくわかった。失われた音楽祭の日を、私に見せてくれたのね。
「ペザに乗り入れていた異世界の総てが、呪詛世界の呪いを恐れて時空転移門の扉を閉ざしました。唯一、このアルトシア世界を除いて……」
 私は、震える自分の身体を抱いたまま、美しい胡蝶草の花弁の漂う中で立ち尽くしていた。
「ペザ門とアルトシア門は同じ地の扉……女王様は、大変な決意をなさり、人々を救出するために騎士たちをペザへ派遣されました。そして滅亡の地から数百人もの人々が救い出されました。このことを知るのは、限られた為政者だけですが、それでも、遠く異世界の王からも、いまも勇気ある行動と賞賛を受けています。
 ですが、危機は翌日に訪れました。
 厳重に騎士や魔法使いたちに守られたアルトシア門魔方陣へ、妖魔シャムシールを伴った沙羅様が現れたのです」
 私は、ぎゅっと、力を込めた。途中で、気を失わないように。
 どんな真実でも、ちゃんと、最後まで聞けるように……
「沙羅様は、アルトシア世界までも滅ぼそうとなさいました。そして、まだ幼かったラス様も彼らと戦い……時間凍結封印を試みました……」
 セシュナ様は、そして、ゆっくり私が求めていた答えを言葉にした。
「沙羅様が封印される直前に魔法を破り、不完全な時の封印が破裂しました。過大な負荷と、衝撃と……だから、ラス様は……そのとき、大切な物を失いました」
「大切な物を……?」
「お母様の記憶です……幼い頃に、ラス様はお母様を亡くされました。その思い出を含む記憶の総てを失ったのです。
 一時は、ラス様は自分が誰なのかさえも理解できないほどでした。ですが、元より聡明な方ですから、周囲に仕える者の努力で大方の記憶は戻りました。
 ですが、お母様との想い出は別でした」
  私、そんなこと、ひとことも聞いてないよ。
  ラスは、一度も、私にそんな素振りも見せなかった。
「宰相家の嫡男であること、周囲に使える臣下の名前と役目、それまでに学習されたこと……知識は、覚え直すことができます。
 私を含む側近やご友人との信頼関係も、新しく築き直すことができます。
 でも、亡くされたお母様とラス様の想い出は、もう、どうしょうもありませんでした。
 もちろん、その後、私や宰相家に仕える者たちが皆でラス様に、いろいろな思いで話をして……でも、ラス様は……お母様の笑顔がどうしても思い出せなくて……写真ではない本当の笑顔が……」
 だから……と、セシュナ様は言葉を紡いだ。
「ラス様は、何度も何度も問いました。砕け散った記憶の欠片は、どこへ行ったんだろうって……私は、耐え切れずに、うそを話してしまいました。
 まさか、消え去ったとはいえません。
 まだ、私もラス様も幼かったですけど……私、一応は、星見術師のつもりでした。だから、一生懸命に魔法書をひっくり返したり、占い術の真似事をしたり……
 最後に出した答えは、正直にいって苦し紛れでした。
 砕け散った記憶の欠片は、きっと、沙羅様が身ごもった子に引き継がれていると……」
 私は、悲鳴をあげそうな口元を押さえた。
「姫、申し訳ありません……呪詛世界に立ち去った沙羅様の子供といえば、いかにラス様でも探す術はない。そして、生まれ変わりの誰かが、たとえ遥か彼方にでもいる……そう、考えたら、きっと希望を失わずにいられる……子供心ですけど、精一杯の答えでした」
 そして、セシュナ様は付け加えた。
「あのペザ事件のとき、私は十二歳で、ラス様は八歳でしたから……だから、四年後、姫、あなたがアズレイア門にいると聞いたとき、正直にいって困りました」
 まさか、その数年後に、「遥か彼方の希望」が、「沙加奈姫」となって、このアルトシア世界に舞い降りてくるとは、考えなかったと……
「なぜ沙羅様が、幼い姫をアズレイア門へ送り届けたのかは存じません。アズレイア様にお尋ねください」
 私は、いま、自分がどんな顔をしているのか自信がなかった。
 ラスが、私を「希望」と信じる理由がわかったから。
「あの……ラスは、私にそんなこと全然いわなかったけど、お母様の記憶が私の中にあるなんて……」
 私の言葉を、セシュナ様が遮った。
「もう、うそだってことは、ご存知です。ですが、どこかで信じていると思います……」
 そして続ける。
「私も、どこかで、そうだと信じています。ラス様は、おっしゃいました。姫の笑顔を見ていると、懐かしい感じがして、とても愛しいと……」
「そんなっ……だって、わたし、ラスのお母様のことなんて知らない。笑顔なんていわれても……」
 慌てた私に、セシュナ様が微笑した。
「大丈夫です。姫は、そのままでいいんですから……きっと、姫の魂のどこかに、ラス様のお母様の記憶が一緒に溶けているのです……きっと、ですけど……でも、それでいいんです」
 微笑っていられること……それが、ラスのために私ができること。本当にそうなら、きっとそうなら……でも……

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