生まれる前の沙の夢 #8
生まれる前の沙の夢 #8  ~月魔法の妖魔、破局の始まり

 しゃん……セシュナ様が、再び、鈴を鳴らした。
 振り向くと、シアが窓際にいて、はにかんだ笑みを浮かべている。
「お久しぶりですね……シア姫様」
 ラスの言葉に、シアが微かにうなづく。
「驚いたでしょう……」
「もう、逢えないと思ってましたから」
「私も……」
 恥ずかしそうにシアが微笑する。
「ラスも、セシュナも、こんなに大きくなったのね……私だけ、置き去りね」
 ラスとセシュナ様のふたりが、辛そうに視線を落とした。
「気にしないで、仕方ないことですから……たぶん、そう、沙羅のことも含めて」
 ほんの一瞬、シアがぎゅっと、スカートを握り締めたのが、気になった。シアは、時々、無理に押さえ込んだ気持ちを隠し切れずにいる……そんな気がした。
 シアが、大きな動作で気持ちを切り替えるように、首を振った。
「沙羅から伝言を頼まれているの……」
 ラスの耳元で、シアがささやく。何を話しているのかは、わからない。でも……すぐに、ラスの表情が変わった。微かな驚愕と、不安と……短い逡巡の後に、意を決したようにうなづく。
 声は聞こえないけど、シアの唇が、大丈夫って、ささやいたと思う。
「わかりました。沙加奈姫は、シア様にお預けします」
 そして、ラスが私に振り返る。
「沙加奈姫、もう気持ちを決めてしまったんでしたね……真実は、時々、どうしようもなく意地悪ですが……どんな時でも、私は沙加奈姫を信じています」
 ……ラス、ごめんなさい。
 私は、隠し事をしたことを、すごく悔いた。
「気をつけて、そして……あなたの思うように、確かめて……」
 ラスの言葉に、私は勇気づけられた。本当に、優しい人だって思う。
 シアが指を鳴らす。
 セシュナ様の鈴の音と、ラスの心配そうな視線に見送られて、私は再び、砂が見せる夢の中へ。
 意識が夢の中へ落ちて行く直前に、眠った私の細い体をラスが抱き止めてくれたのが、微かに伝わって来た。

◇   ◇

 夢の中へ戻った途端、音楽講堂を割れんばかりの拍手が包んだ。
 舞台を見遣ると、大きな花束を抱いたお母さんがいた。ちょうど、演奏が終わったところだったの。
 駆け寄りたい気持ちが一気に湧いて来たけど、ぐっと、我慢した。だって、ここは夢の中だし、この時点でお母さんは私をまだ生んですらいない。
 そう、「お母さん」って呼ぶことさえ……
「大丈夫、後で会えます……」
 シアがささやいた。どこか、微かに冷たい声だった。

 促されて椅子に掛けた。三人ほどバイオリンの演奏が続いた。
 私は、案内役のシアのするとおりに、大人しく学生たちの演奏を聞いた。残念だけど、音楽鑑賞を楽しめる気分になれないけどね。
 ふと、シアが音楽講堂の片隅に、真銀のパイプオルガンに隠れるように掛けられた時計を見遣った。
「もうすぐですね……」
  えっ?
 聞き返したけど、シアは答えなかった。代わりにまっすぐ、舞台を見詰めていたの。
 そう、そこには……きれいな水色の衣装をまとった夢の中の……ペザが滅亡したあの日のシアが、少し強張った顔でパイプオルガンの演奏を始めていた。
 シアの演奏は、ちょっと下手だけど一生懸命だった。時々、難しい旋律をトチる。でもね、オルガンを奏でることが本当に好きなんだって、わかった。
 ……ヘタっぴですね。もっと、上手になりたかったのに……
 微かに、シアがつぶやいた。うつむいた横顔は、髪に隠れて見えないけど、たぶん、泣いているんだと思った。

「もうすぐ……来ます」

 そして、突然のノックが静寂と、旋律とを打ち破ってしまう。
 甲冑の擦れ合う音、硬く荒々しい靴音、怒鳴り声……悲鳴と、喧騒と、喚き声と……
 舞台の上で、鍵盤に向かったまま、手を止めて……戸惑った蒼い素顔が、めちゃくちゃになった音楽講堂を怯えたように眺めていた。

 女の子の一生懸命な演奏を踏み躙ったことも構わず、騎士たちが音楽講堂いっぱいに響く声で叫んだ。

 ペザ門に月魔法の妖魔が現れた。
 破壊の魔法が、ペザ門の守護兵を打ち倒した。
 異世界から魔獣が召喚された。
 ここも危険だから、直ちに避難されたい。

 虚負の力と、虚数魔法を自在に操り、数千の兵士すら打ち負かしてしまうほどの魔法力は、とても人間がかなうものじゃない。月魔法の妖魔……その実力は、アズレイア門でのあの出来事で、私は目の当たりにしている。でも……初めてあの力を見せ付けられたら……
 プライドが高いはずの騎士たちが、どうしようもなく、うろたえている姿にも納得できた。
 でもね、音楽講堂に集まったお客さんたちは、違うの。
 だって、レアルティア音楽学院に学ぶ生徒の父兄たちは、ほとんどが宮廷貴族や大商人だもの。ペザに住んでいる人も、異世界から今日の音楽祭のためにペザへ来た人も、誰もが妖魔との戦いが起きるなんて思ってもいない。

  ぱちんっ!

 シアが指を鳴らした途端、喧騒が消えた。周りを見回すと、時間が止まっていた。
「もぉ、私の演奏を誰も聞いてくれないんですね……」
 シアは膨れっ面だった。
 それから、私に向き直った。
「沙加奈、えっとね……これからは、あなたひとりで確かめて欲しんです。自分の目で、何がペザで起きたのかを……」
 急にそんなこといわれても……戸惑う私にシアが微笑った。
「そぉね……ペザ門に行けば沙羅が時空転移門を開くところに立ち会えるはずです。いまから、一生懸命に走ればだけど……」
「ペザ門って、どこにあるの?」
 それに一生懸命に走るっていわれても……
「大丈夫、ここレアルティア音楽学院からは、正門を出て、大通りをまっすぐです。途中で案内看板もあるし、迷うことはないでしょう」
 とりあえず、うなづいた。
「日没までに、大鐘楼に来てください」
 再び、小首を傾げて見せた。大鐘楼って、どこよ?
「あ……まだ、話してなかったですね……この音楽講堂の上にある塔の最上階にあります。このペザの街で一番に高い場所です。そこへ来たら、沙羅からの伝言をお伝えしますね」
 お母さんからの伝言、そう聞いて私は思わず身を乗り出した。
 でもね、シアは低い声でいうの……
「気をつけてください……ラスはとっても心配してましたけど……ここで、もしも、万が一のことがあれば、二度と砂の夢から目覚めることが出来なくなります」
 私は、勇気を掻き集めて、微かにうなづいて見せた。
 ラスが心配していた意味が、わかったから。
 でもね、シアは微かに微笑んだの。そう、どうしようもない時、笑うことしか出来ない時の困ったような微笑み。
「この音楽講堂にいる人々は、みんな、殺されます」
 息を呑んだ。
 初めて夢の中でここへ来た時……この音楽講堂の中は、数え切れないほどの砂の山で埋め尽くされていた。
 覚悟していたつもりだけど、ペザ事件の真実を知るということは……大勢の人々が殺されてゆく姿を見ること……
 血の気が引いてしまった私に、追い討ちをかけるようにシアがささやく。
「私は助からなかったけど、沙加奈は、たぶん、大丈夫だから」
 そして、シアは、視線を伏せた。もう、私に表情を読まれたくないって意味だと思う。たぶん……押し込めた気持ちを我慢できなくなったのね。
 無理はないもの。
 この音楽講堂にいる人々は、これから、みんな砂に変えられる。
 そう、パイプオルガンを奏でていた途中のあの日のシアも……
 初めて見た砂の夢では、音楽講堂だけでなくて、舞台袖や、教室へ繋がる回廊にも、あっちこっちに砂の山があった。
 やっと、その意味がわかった。わかった途端、肌寒さを感じて、自分の体を抱いた……
「みんな何が起きたのかさえ、理解できないまま、ただ、逃げ惑って……死と骨と砂の呪いに殺されてゆくの……痛みも苦しみも全然なかったのに……でも、突然、何もかも失ってしまったなんてね」
 ぽつぽつと途切れ途切れに、シアは言葉を紡ぐ。か細いのに、どこか怒りに近い気持ちを必死に押さえているような声で……だから、なんて言葉をかけていいのかさえ、わからなくって、私は戸惑ったままだった。
「沙加奈……心配しないで、たとえ月魔法の妖魔がみんなを殺しに来ても、あなただけは、大丈夫だから……」
「えっ? でも……」
「もう、行ってっ!」
 シアの震える声が、私の問いかけを遮った。シアは泣いていた。今にも泣き崩れそうな細い肩が、それでも、声を押し殺して、泣き声を呑みこんでいる。
「ごめんなさい」
 悪気はなかったけど、こんな泣き顔を見てしまったことを詫びた。でも、シアは首を振った。
「こんな風に謝られるのは、いやですよ」
「ごめんなさい……」
 もう一度、思わず、同じ言葉を口にしてしまう。
 泣いていたシアが、微かに吹き出した。
「あなたって人は、本当に、もお……」
 泣き笑いの表情が揺れる。それがシアの心を映している。泣きたいのに思いっきりは泣けないし、笑いたいのに恥かしげな微笑みを揺らすことしか出来ない。シアが時々見せる、はにかんだ笑みは、戸惑いの裏返しだと、わかった気がした。
 だから……
「私、そろそろ行くね……ペザ門まで全力疾走でいいんだよね……」
 私の言葉に、シアが小さくうなづく。
「じゃ、後で、大鐘楼へ来てください……待っていますから」

 シアの言葉に見送られて駆け出した途端、時間と喧騒が戻った。
 振り向いたとき、シアの姿はもうなかった。

 席を立って口々に喚き始めた人々を、一生懸命にすり抜けた。
 人々を掻き分けて、分厚くて重いドアにたどり着いた。
 重いドアを体重を乗せて押し開く。
 外は、まだ、昼下がりの陽光の眩しさ。

 ドアから飛び出した私は、音楽学校の正門へ……それから、バザールで賑わう敷石舗装の街路を、シアにいわれたとおりに一生懸命に走った。ここでも、ペザ門に妖魔が現れたって、ふれ回る声がする。
 色鮮やかなテントの下に、華やかな衣装や、甘酸っぱい匂いの果物や、不可思議な魔法器具や、異世界からの銀貨や、様々な品物が並ぶ。それさえも、ひっくり返して……戸惑いと驚愕と悲鳴が、華やかなペザの石造りの街を包み始めていた。
「きゃっ!」
 誰かにぶつかって、弾き飛ばされた。敷石舗装の街路にしりもちをついた。
「お嬢さん、大丈夫か? 気をつけてくれよ」
 商人の背中は、売上金の勘定をしていた。見覚えのあるアルトシア世界の銀貨も混じっている。そして、この人はもうすぐ死んでしまうことすら知らないの。
「ごめんなさい……」
 微かに声をかけて、逃げるように走り去った。

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